【第18回】見果てぬ海原の只中にて

 こんにちは。島根大学の平田将達です。第8回に続き、2本目の投稿になります、
新型コロナウイルスの感染拡大のこともあり、自粛や規制ばかりで、気が重いですね。私も、何かしてみようとは思ってみたものの、万事うまく運ばず、結局なにもできていません…。
 さて、今回のテーマは、「情報」の受け取り方です。ウイルスの感染拡大が止まらない中、情勢は常に変わり続けます。その中で、私達はどう動くべきか。その判断に必要なのが、情報。それも、「最新の」「正確な」情報です。そんな中、私たちが情報を求める態度は、果たしてどうなのでしょうか。批判的検証と反省も込めて、考えてみたいと思います。
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「昔はちゃんとした部だったんだろ」
「そっか」
「てゆか、あたしたちがダメにしちゃったんだろうな」
「えへへ~」
三上小又ゆゆ式』4巻p.54、芳文社、2012年初版 より

 現代の私たちが情報を得る手段には、さまざまなものがあります。
 口伝え、新聞、電話、インターネット…。
 その総量は、すさまじいものです。インターネットで、何か一つの単語を検索してみると、たちまち数万・数百万ものサイトがヒットすることからも、そのことはすぐにわかるでしょう。「情報の海」とはよく言ったもので…。
 インターネットについては、家で使うパソコンの他に、スマートフォンに代表される携帯端末が普及し、通信環境も整備されたことから、(ほぼ)いかなる場所、いかなる状況においても、情報が手に入ります。
私たちは、その無限にも思える情報を、好きなだけ摂取することができる環境にあるといえそうです。しかし、いくら暇を持て余した人であっても、世にあふれる情報の、全てを手に入れることは不可能でしょう。
つまり、私たちは、膨大な中から、個人の見識をもとに、さまざまな媒体を介して、情報を選び取っているということになるのです。

 私たちは何か行動するとき、すでに持っている情報を基に、行動します。
 例えば、出掛ける前に、「15時から雨が降る」という情報を、天気予報で得たとします。この時、この情報を受けて、どのように行動することが考えられるでしょうか。
 ①「15時までに帰るようにする」
 ②「15時までには帰れないので、傘を持って出掛ける」
 という2つの選択肢は、ともに、「15時から雨が降る」を受けて取る行動として考えられます。
 では、皆さんならば、どちらを選びますか?
 ――私ならば、断然②を選びます。
 なぜなら、天気予報というのは、必ずしも当たるものではなく、「15時から雨が降る」といっても、実際には、13時や14時に降り出すことが考えられるためです。16時や17時からになることも考えられますが、もう家に帰っているので、遅い分には構いません。
 現実的には、3時間予報を見て、「雨」のマークが見えたら、とりあえず傘を持ちますね。(これは、私が、雨が降りやすい、松江に住んでいるということが影響しているかもしれません)
 ここで①と②を組み合わせて、「傘を持って、15時までに帰る」という選択肢は、適切といえるでしょうか。
 適切でないとまではいわないものの、②系統の「15時までに帰る」の部分が余計でしょう。傘があれば、大概の雨は防げます。よっぽど雨が強くて、移動に支障が生じるか、風で傘が壊れでもしない限り(松江ではたまにあるが)、雨が降ったところで、特に不利益を被ることはないと思われます。
 「雨に濡れても平気なので、15時は過ぎそうだが、傘は持たない」というのはどうでしょうか。
 雨の降り方によりますね。少しの雨なら、濡れても、たいして問題にはならないでしょう。欧米人など、少しの雨では傘はささないそうです。しかし、梅雨の終わりの大雨や、台風・前線が接近しているなら、全身びしょ濡れになるほどの大雨が降ることが予想され、程度によっては低体温症の心配があるほか、濡れたまま屋内の公共空間に入ると、周りにも迷惑なことから、避けるべきでしょう。また、特別警報クラスの豪雨なら、命にかかわる大雨が降ると予想されるため、そもそも外出自体が危険です。
 実際には、「雨が降ってきたので、ショッピングモールで時間をつぶす」「タクシーで家に帰る」など、もっと多様な行動が考えられますし、雨が降りそうなら、「傘は持つはず」でしょう。なぜ、こうも回りくどく説明するのか。
 ここまで、雨と傘を例に長々と書いてきましたが、もう一度読み返せばわかる通り、ここまでの記述には、これまでの人生で、我々がものにしてきた、さまざまな「情報」を散りばめてあります。
この例では、「15時から雨が降る」という命題が与えられただけなのに、主に2つの選択肢から、より正しい方を、根拠をもって選んでいます。その判断の裏には、多くの「情報」が関わっています。この判断が全くできないという人は、この記事をここまで辛抱強くお読みになっている方の中には、おそらくいないでしょう。つまり、私たちは、「15時から雨が降る」という情報さえあれば、他の情報と組み合わせることによって、「雨に濡れることを理論上回避」できる能力を、すでに身に付けているといえます。
しかし、雨が降ったときに、傘を持っていなかったため、濡れてしまう人がいます。かくいう私も、雨に濡れたことは、何度もあります。
なぜか。第一に、その日に天気予報を見ていなかったために、「15時から雨が降る」という情報を得られていなかったことが考えられます。十分な情報を事前に得て、判断もできていたのに、適切に対応できないということは、あまり考えられません。
※「傘をうっかり忘れた・失くした・壊した」という場合も考えられますが、それは、「情報を得る」こととは、直接関係がないので、ここでは考えないこととします。

なお、先に挙げた例では、「雨に濡れなかった」場合を「適切」、「濡れた」場合を「不適切」であると、客観的にみなすことができます。「15時から雨が降る」とわかっているのなら、濡れないようにすることが、常識的な行動であると考えられるからです。
ではこの場合、どうすれば、適切な行動を取れるのでしょうか。
 このとき、判断に必要なものといえば、やはり「情報」です。それも、「最新の」「正確な」情報を手に入れる必要があります。
雨が降るのかどうかを知るためには、天気予報を見なければなりません。おおむね日に何度も更新されるため、できるだけ新しいものを見るほうが良いです。また、松江市に住んでいるのなら、「松江」や「島根東部」といった地域の予報を見るべきです。「広島」の予報を見てしまっては、少し信頼度が落ちるでしょう。(松江は中国山地の北側、広島は南側にあたるため、気候そのものが違います。当然、予報が異なる場合も多々あります)
では私たちは、いかにして天気予報を見るべきか。できるだけ、確認する頻度を高くし、居住地に近い予報を手に入れることによって、「傘を持って出ないときに雨に降りこめられる」可能性は低くなります。現実的には、四六時中確認することは不可能で、また、常に自らの頭上を予報してくれるわけではありません。ただ、「2日に1回しか予報を見ない人」よりは、「毎朝見る人」が、「毎朝見る人」よりは、「朝夕と、出掛ける前に、マメに確認する人」のほうが、(松江に住んでいて)「広島の予報を見て満足する人」よりは、「多少面倒でも松江や島根東部の予報を確認する人」のほうが、「雨に濡れにくい」でしょう。
ここまで突き詰めると、判断は「適切」「不適切」の二項対立ではなく、もっと複雑で、量的なものになっています。「たかが天気予報ごとき」により多くの時間を費やせば、その分ほかのことをする時間が減るので、その時間は、その人にとっては、「無駄」かもしれません。情報収集にどの媒体を使うかは、その人の見識や能力にもよりますし、その人にとって良いように、情報を得れば良いと思います。
ここで、「雨に濡れないように」行動した以上は、いかに詳しく情報を収集しようとも、もし雨に濡れてしまったなら、結果的に、当初の目的は果たされなかったことになります。この場合、「あの時の判断は不適切だった」と、後になってから、結論付ける余地があります。

 「判断に失敗したから雨に濡れた」程度で済むのなら、大して気にも留めない人もいるでしょう。
しかし、現実に判断を迫られる問題の数々は、「雨に濡れる」ことに比べ、リスクが重大なことも少なくありません。
「政治」「カネ」「思想」「役職」「賞罰」「人物像」など…。
これらはみなすべて、人々を悩ませうる厄介な問題です。もちろん、一概に厄介と言えるものではありませんが、多くの人々の目に触れやすいものであるため、身分や立場の違いから、対立が生まれることが、しばしばあります。「適切」「不適切」の判断も難しく、一度下された判断が、後に覆されることもあるでしょう。
それらの問題について、どんな言論が生まれるでしょうか。各人が意見を持つにあたって、見聞きしてきたものはそれぞれ違うため、たとえその時意見がうまく合ったとしても、その根底にある意識というのは、それぞれ異なり、まったく同じ意見は存在しないと、私は考えています。つまり、仮にそれぞれの意見の「中庸」を、うまく取ることができたとしても、この世のいかなる言論も、真に「中立」たりえないと思うのです。中には、公正なものであることを全く放棄して、自らの立場から、異なる立場の人間や言論を、誹謗中傷するための意見さえも、数多く見られます。
我々の手が届く範囲にある言論も、実にさまざまな立場から作られています。それらは、それぞれ異なっていることから、矛盾も生まれることでしょう。
「15時に雨が降るから、傘を持って出掛けよう」というほど、簡単に対応策(らしきもの)を思いつくとも限りません。なかなか素案が出せないばかりか、人によっては互いに相容れないものを思いつくこともあるでしょう。そういうときには、対立する意見を整理することで、お互いの問題点が明らかになり、より深い理解が得られ、時にはお互いの意見を折衷して、それまで思いつかなかった策を思いつくかもしれません。それが正しいというより、むしろそうするしかないのです。
一方で、大きく二派に分かれたうちの、片側ばかりを摂取することは、批判的検証につながらないばかりか、独断とも呼ぶべき状態に陥ることになるでしょう。物事に対して、複数の視点を持つことは大事と言われますが、まさにその通りだと思います。

 その中で、情報を受信するというプロセスのあり方について考えるということは、ほとんど行われていないように思います。私たちは、全く見たことも聞いたこともないものを、理解することはありません。何かしようと思ったときに、知らないものは、選択肢の中にも入らないのです。そういう意味では、摂取した情報は、その後の行動を、ある程度規定することになるといえます。
インターネットにおいては、「検索」という行為によって、特定の事柄について知ることができます。それは、断片的な情報であることが多いです。では、他の媒体ならどうでしょうか。欲しい部分だけを欲しいように解釈するということは、果たしてネットの特権でしょうか。新聞やテレビに頼れば、ネットより良い情報が手に入るのでしょうか。新聞やテレビを縛る、量的な制約(新聞の紙面、テレビの放送時間)はネットには存在しませんが、ネットなら心ゆくまで、質の高い議論ができるのでしょうか…。

 私には、どれも正しいとは思われないのです。また、情報について、より深く知るには、各メディアの長所・短所について比較や検討をし、私たちが手にする情報の正体についても、考える必要があると思います。

 無尽蔵に情報が手に入る現代。みなさんも、情報の受け取り方について、少し考えてはみませんか?