【第27回】「当たり前」というむなしさ

 こんにちは。島根大学の平田将達です。
 新型コロナウイルスCOV-19との戦いは、まだまだ続きそうですね。この感染症によって、我々の暮らしは変わろうとしています。ウイルスに強い社会を作ることが、当面の目標になるでしょう。
 一方で、変わらない部分、変わらなければならないのに変わらなかった部分もあるでしょう。この社会のどの部分が変わり、変わらないのかは、誰にも予測できないのです。
 今回は、「変化」をテーマに、「当たり前」について考え、今までの「当たり前」が当たり前ではなくなっていく現状を、なんとなく分析してみたいと思います。まだ感染症の全容が見えていないので、COV-19については、最小限の言及に留めます。
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私以外私じゃないの 当たり前だけどね
ゲスの極み乙女。「私以外私じゃないの」、2015年より

 「当たり前」とは何でしょうか?従来の知識や経験から導き出される結果が、妥当であると判断されるときに、人はその結果を「当たり前」であると断じるのではないでしょうか。
 「物に意識があるのか」といった不可知なものについて、「ある」「ない」といった明らかな答えを出すことはできず、「わからない」としか言えません。
 しかし、「ない」という判断を下す余地はあります。不可知なものを、「ない」ものとして扱うことは、そうおかしなことではないでしょう。
 物事の全容を把握するということは、難しいというより不可能なもので、この世に起こりうる全ての可能性というものは、把握することも予想することもできないのです。
 つまり、人間が知覚しうる全ての可能性について検討したところで、予想だにしなかったことがどこかで起こるかもしれず、そのために、従来の予想が大きく覆されてしまう場合があるといえます。
 机上の空論としては、不可知なものを、少しばかり「ない」ものとして扱ったところで、愚直に全ての可能性について検討することと、大して変わらないのです。むしろ、想像力をフル活用して突き詰めていくと、常にあらゆる可能性について検討をし続けることになり、頭がパンクしてしまいます。
 (その実現可能性は置いておいて)中国故事の「杞憂」という話に見られるような、「天が崩れ、地が崩れる」というような可能性まで検討してしまっては、我々はたまらないのです。ゆえに、「もうここまで検討すれば十分だろう」と判断されるタイミングで、我々は検討を打ち切ります。「もう十分」と勝手に思っているだけなので、本当に十分とは限らないのですが…。

 2020年は、日本にとって、一つの転換点になる予定の年でした。それが、新型コロナウイルスCOV-19の流行によって、大きく汚されてしまいました。国内の感染者は、一時に比べて減りましたが、感染再拡大にはまだ警戒を緩めることができません。
 オリンピックイヤーであるこの年に、多くの外国人を呼び込むことは、つい今年初めの時点でさえ、疑われることなどありませんでした。しかし、それがCOV-19という「想定外」の脅威により、もはや不可能となってしまったのです。観光業界、その他多くの業界は、この「想定外」の出来事により、大打撃を被ることとなりました。
 「海外から人を入れることは、感染リスクを高めることになる」ということを、今さら主張したところで、それが数か月前の日本に受け入れられたということはありえません。COV-19という脅威がなければ、「正しい」はずの入国・出国制限は、国を亡ぼす奇行にしか見えないでしょう。

 「当たり前」とは何でしょう。今回のCOV-19大流行もそうですが、今までの「あたり前」が問い直される場面は、繰り返し見られたものです。3・11以前の日本には、「原発の「安全神話」が存在し、事故はあっても、人々の営みを崩すほどの大事故が起こるとは、全く考えられてきませんでした。1945年の敗戦以前には、我が国は「皇国」「神国」であり、「八紘一宇」の大義のもと、日本は特別な国家であると信じられてきました。
 社会全体を問い直すだけでなく、「1時に寝れば7時には目が覚めるはず」と思っていたのに、「深酒がたたって」、「目が覚めたら8時だった」というようなレベルのものも、「当たり前」を問い直すという点では共通します。
 このとき、「酒を飲んだから7時に起きられないかも」というような考えが頭にあったのかどうかは、「8時に起きられるかどうか」には、あまり影響しないでしょう。むしろ、「8時に起きられなかった。何でだ?」という状況に追い込まれ、その原因として、「酒を飲み過ぎたからかなぁ…」という類推が、後から行われるはずです。寝坊するまで、深酒が寝坊を引き起こすという考えは頭になく、寝坊して初めて、自らの行動を顧みるのが、妥当なところではないでしょうか。
 しかも、「本当に寝坊が原因かどうか?…」ということを考えると、「そうだ!」とみなすことができたとしても、本当は別の可能性が残されているのかもしれません。昼寝のせいかもしれませんし、ネトゲをやりすぎたからかも、運動不足のせいかも、寝る前にYouTubeを見たせいかもしれません。そして、どれだけ検討してみたところで浮かんでこない、未知の可能性が残されています。
 たとえ事象が一つであったとしても、そこには複合的な要因があり、それらがどの程度関わったのかを、客観的に明らかにしたところで、それが改善につながるとは限りません。予想もしないところから粗が出る可能性もあります。目先の事柄を改善し続けても、「だんだんこの社会が良くなっている」とは限らないでしょう。改善を続けることは、「つねに前進している」という見方もできる一方で、「目先のことに追われ、風任せでふらふらしている」ようにも見えるのです。
 だからといって、我々は、何もしないわけにはいかないのではないのでしょうか。何かしているという自覚がほしいということもあるのでしょうが、目の前に迫る危機によって、我々の生活が冒されてしまってはたまらず、常に何かを改善することが、この社会に生きる上で必要であり、それをしなければ怠慢であるとみなされているのが現状です。
 ただ、ここで一つ気になるのが、人間は、「これが最善だ」と思われた行動を、常にたどっていけるわけではないのです。
 先に挙げた例を使うと、「酒を飲むと7時に起きられない」とわかっていながらも、誘惑に負けて酒を飲んでしまう可能性があります。誘惑に負ける場面は、酒のほかにも、タバコ・食事・睡眠・ゲーム・ギャンブルなど多々あり、どの程度自分が最善から離れたところにいるのかも、また明らかにしがたいものです。
 「これくらいはできて当たり前だから、もし何かそれを阻む要因があったとしても、その分を差し引いて、目標を達成できるようにせよ」といったことを言われますが、その根拠として、自らの能力がどの程度あるのかは、「過去の経験」から導き出すしかないために、ひとたび想定外のことが起きてしまえば、目標など達成できるはずがありません。
 結局は、想定外のことが起きないことを願って、念仏を唱えながら危ない橋を渡ることが、我々にできる最大限のことなのでしょうね。

 「当たり前」とは、「正しい」というニュアンスをもち、その正しさは、何かきっかけがなければ問い直されません。しかし、「今までの当たり前が当たり前ではなくなる」という状況が存在することに注目すると、その「正しさ」は、不変ではないといえるでしょう。問い直すことは、今まで「正しい」とされたことが「正しくない」とわかり、「正しくない」とされたことが「正しい」とわかることなのです。
 中高年にとって、インターネットの存在は画期的なものでした。初期のネットは、アングラな一面を持っていたことから、あまり好ましく思われてこなかった経緯がありますが、今やその価値は、かなりの部分において見直されたといって良いでしょう。
 その反面、若者世代にとっては、ネットは生まれる前から存在したものであり、存在自体が「当たり前」になっているといえます。「かつては低俗だったが、使い方によっては便利にもなった」という「当たり前」な物語は、今の若者には通用しません。今の若者にとっては、ネットは便利で「当たり前」であり、使うかどうかを迷ったことなどないのです。
 そもそも、この世の全ての事物は、時とともに変化するものです。「国破れて山河在り」という唐詩の一節は、人の一生という短いスパンから自然を捉えるからこそ成り立ちますが、数万・数百万年というスパンで考えれば、山河草木に至るまで、あらゆるものが移り変わることになります。そういう意味では、山や河や大地の存在すら、「当たり前」とはいえません。
 しかし、そのスパンを一瞬に限れば、「机の上にリンゴがある」といった、極めて作為的な命題ですら、「当たり前」と呼ぶことができます。(リンゴは本来、机の上にあるものではありません)
 そう考えたとき、私は、「当たり前」という言葉が、極めて恣意的・主観的な言葉であると感じました。「当たり前のことを当たり前にできるようにしよう」「当たり前に暮らせる社会にしよう」のように使われる「当たり前」という言葉に、重みが感じられなくなってしまったのです。「何をして当たり前とするか」といったことを考えない限り、そのことばの意味は空虚に思えます。
 それぞれが「当たり前」をぶつけ合い、壁にぶち当たりつつ、「当たり前」を問い直すという光景は、この広大無辺の世界の中で、ちっぽけな人類が何かを求め、ばらばらの方向にさまよっている光景に思えます。「当たり前」とは、なんとむなしいものでしょうか…。

 今回、このようなテーマを考えるきっかけとなったのは、やはりCOV-19の流行により、さまざまな「当たり前」が問い直されたことです。状況は相変わらず厳しいままですが、出口の見えないこの苦境を、なんとか生き抜いていきましょう。