【第42回】江戸時代の知られざるヒーロー
こんにちは、平田将達です。今回の記事は、以前のものとは趣向を変えて書きたかったのですが、COV-19の影響により、十分な調査ができなかったので、不完全燃焼な記事になってしまいました。どうかご容赦ください。
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…なにやら大げさなタイトルをつけてしまいましたが、今回は、江戸時代の山陰を救った、「
なお、今回このテーマに注目したのは、私の出身地である岡山県(浅口市生まれ、倉敷市育ち)と、現在住んでいる島根県(松江市在住)の共通点を探した、独断と偏見による結果です。
突然ですが、「島根県大田市」と「岡山県笠岡市」の共通点はなんでしょう?
…それは、名前を間違われやすいことですね(笑)
大田市は、このような字である以上、読みが「おおだ」か「おおた」か、字が「大田」か「太田」かで間違えられます。
東京都区部に「
そして、
試しに「笹岡市」と検索すると、何やらヒットしてしまいました。
…。
………。ハッ、私が生まれた「
さて、前座はこのくらいにしておいて、ここに紹介した2つの市は、互いに「姉妹都市」の関係にあります。その根拠は、両市にゆかりのある「井戸平左衛門」という人物にちなんだことです。何となくですが、街並みも似ているような気がします。
井戸平左衛門(本名:正明、正朋とも)は、江戸時代中期の幕臣です。
彼が大森代官に着任した
この時、平左衛門は何をしたのかというと、生活難に苦しむ領民の年貢を減らし、食べるための米を援助し、私財まで投じたということです。
それだけではありません。彼が大田市大森の栄泉寺を訪れた際、たまたま諸国修行の途中だったという薩摩国の僧・泰永に出会い、薩摩には「サツマイモ」なる中国由来の作物があることを聞きつけます。(当時は「サツマイモ」とは呼ばれていなかったでしょうが)
サツマイモは、痩せた土地でもよく育ち、育てる手間が少なく、その割に収穫できる量が多いことから、飢饉に強い作物であることが知られています。鹿児島県には火山が多く、土壌が灰を含んでいて、普通の作物は育ちにくい土地ですが、サツマイモが現在よく栽培されていることからもわかることです。
井戸平左衛門は、大森の民を救うために(この時点では、まだ笠岡代官には任ぜられていなかったようです)、サツマイモを取り寄せ、大森の住民はかろうじて植えることができました。これにより、多くの人命が救われたとのことです。(ここまでの記述は、『島根県誌』と後出の境港市ホームページの記述によっています)
特にこの活躍により、井戸平左衛門は、「芋代官殿」などと呼ばれるようになったようです。大森の住民に慕われている証拠です。
ただ大森の住民が救われただけではありません。井戸平左衛門が輸入したサツマイモは、その後しばらくの年月を経て、
鳥取県
http://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/imo/
それによれば、
https://www.sankei.com/premium/news/200817/prm2008170005-n1.html (産経新聞)
さらに、こちらのネット記事によると、井戸平左衛門をたたえる石碑は、島根・鳥取・広島・岡山の4県に500基以上を数え、うち大田市内だけでも100基以上もあるそうです。井戸公のサツマイモが、いかに広範囲の住民を救ったかが読み取れます。
私も、そのうちのいくつかを目にしたことがあります。以下にいくつか画像を貼りますが、全てCOV-19が流行する前に撮影したものです。碑があるという場所をもっと訪ねられればよかったのですが…。
「𣳾雲院殿」とは、井戸平左衛門の法名(亡くなった際に付けられる名)の「法名の「泰雲院義岳良忠居士」から取ったものでしょう。この碑には、「享保十八年 丒 五月廿八日」の銘がありますが、享保18(1733)年の5月26日に平左衛門は没しています。日付は2日ほどずれたのかもしれません。
私が井戸平左衛門に興味を持ったのは、歩いていてこの碑を見つけたのがきっかけでした。
島根半島の最東端・美保関灯台に向かう途中の道の脇にも碑があります。草によって下の部分が隠れていますが、この碑があるのは歩道のない道路脇で、つるをどけてまで撮影する余裕はありませんでした。
(撮影地:
JR浜田駅から南に進んだ道路脇に、この碑がありました。浜田市にも、この碑は多いようです。
以下の3枚は、温泉津を訪れた時に見かけたものです。この道路は交通量が少なく、ひっそりとしています。
平左衛門の命日が刻まれています。この近くには神社や仏閣があり、建立にはどちらかが関係しているのかもしれません。
上記の画像の地点から福光川沿いを下り、温泉津小学校・中学校を過ぎて、福光海岸の近くにある碑です。文言は「井戸公
全部で500以上あるということで、いかに遠くまで彼の名前が知られていたかがわかります。現在では、井戸公の事蹟を知る人は少ないでしょうが、碑文を目にすることで、少なくとも私のような人間は食いつきます。
もう一つ、井戸公の事蹟を伝えるのは、石碑だけではありません。島根県には、井戸公が僧・泰永に出会ったという
https://yaokami.jp/1325748/ (八百万の神、栄泉寺)
https://idojinjya.org/ (井戸神社 ホームページ)
岡山県には、井戸平左衛門の墓がある
https://www.kasaoka-kankou.jp/spot/599 (笠岡市観光連盟、威徳寺)
https://www.kasaoka-kankou.jp/spot/164 (笠岡市観光連盟、井戸公園)
このように、井戸平左衛門という代官のことを後世に伝える媒体はあるものの、我々はなかなか意識しません。たとえ石碑があったとしても、気付かずに通り過ぎてしまうことが多いでしょう。
しかし、ほんの少し意識を向け、手がかりを発見することによって、井戸平左衛門のことを知ることができ、姉妹都市笠岡市と大田市の関係性にも気づくことができるのです。身近だからといっても、身の回りの全てを知り尽くすことはできないでしょうが、今まで知らなかったことを知り、歴史や文化を感じることができるという点で、今回は良い体験ができたと思います。
これから、「𣳾雲院殿」や「井戸公顕彰碑」などと書いてある碑を見つけたら、記録して覚えておきたいと思います。