【第46回】昭和をたずねて令和を生きる

 こんにちは、平田将達です。

…第42回で書いたばかりじゃないかと突っ込まれそうですが、先週で5周目が終わり、この6周目から、投稿する順番が少し入れ替わった関係で、私がトップバッターを務めさせていただくことになりました。念願の新メンバーも加入したそうで、このブログに彩りが加わることを期待しております。

 ところで、このブログが開設されたのは、2019年11月23日のことです。

【第0回】リレーブログ始めました!

https://rerayblog.hatenablog.jp/entry/2019/11/23/153224 

 少し気が早いですが、もうすぐ1周年になるのです!(私が始めて投稿したのは、第8回・2020年1月20日)

 今回の記事では、rerayブログの1周年を勝手にお祝いする意図も込めています。長くなってしまいましたが、よろしければご覧ください。

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 「新しい元号は、令和であります」

(2019年4月1日、菅官房長官記者会見)

 令和が始まった年の後半に、この「rerayブログ」は始まりました。あれからもうすぐ1年(この記事の投稿が思ったより早くなったので、まだ1年経っていませんが)。

 この1年は、新型コロナウイルスCOV-19の感染拡大に振り回された感があり、過去を振り返ることは行われてきませんでした。唯一行われたとすれば、それはコロナのなかった時代への、「懐古」でしょう。

 我々がこの世の中を語るにあたって、政治にせよ、社会にせよ、小説やマンガ・アニメにせよ、「昔は良かった」という懐古主義による考えと、それに反発する「いや、そんなことない。今のほうがいいよ」という考えが存在し、我々は、そのはざまを生きているといえそうな気がします。

 「昔は良かった」というワードを検索しても、あまりそれらしい記事やコメントは見当たりません。むしろ、「昔は良かったというが、今のほうがいいよ!」という主義に基づいたコメントの「踏み台」として、よく見るような気がします。

 では、この社会には、「昔は良かった」主義は存在しないのでしょうか。一見、そう見えなくもないのですが、要は「昔は良かった」というワードが文面に現れていないだけで、懐古主義に浸りたい人は、知ってか知らずか、昔から親しんだものに趣向が偏っているはずです。

 その証拠をあげることは難しいですが、「演歌」や「時代劇」のような古くからの文化ばかりに染まっている人が多いことは、否定しようのない事実です。

 これらは「古い」というイメージを隠せませんが、なにぶん「大衆文化」であり、「伝統芸能」といえるほど地位のあるものでもないので、その古さを隠すにせよ、隠さないにせよ、「古い」ながらに享受され続けているのです。

 事実、これだけ「古い」ものでありながらも、「新しい」スタイルを見出す余地がまだあるようであり、ただ「古い」だけの文化ではないのです。むしろ、「新しい」とされる漫画やアニメの中にも、(キャラ付けなどに)時代劇や演歌やさまざまな伝統芸能が取り入れられているものがあり、「温故知新」とも言うべき現象が起きることがあります。

 しかし、現実として、10代や20代といった世代の中には、演歌や時代劇に興味を示す人は少なく、70代や80代の中には、アニメやゲームに興味を示す人は少ないのが現状です。さまざまな文化が存在する中で、どれを楽しむかについては、やはり世代によって厳密に区切られていると言わざるをえません。

 

 では、最近の流行として、巷ではどのようなものが流行っているといえるでしょうか。具体的な期間は明示しないものの、「ごく最近」になって流行っていると思われるものを、ジャンル別に示してみます。

 

マンガ・アニメ…「鬼滅の刃」「約束のネバーランド」「Dr.STONE」「五等分の花嫁」「炎炎ノ消防隊」「ヴィンランド・サガ」「放課後ていぼう日誌」「デカダンス」「100日後に死ぬワニ」

ラノベ…「転生したらスライムだった件」「Re:ゼロから始める異世界生活」「本好きの下剋上

小説・書籍…「一人称単数」「十二国記」「流浪の月」「青くて痛くて脆い」「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」「ケーキの切れない非行少年たち」「日本国紀」

ゲーム…「あつまれどうぶつの森」「世界のアソビ大全51」「ポケモンソード・シールド」「ドラクエウォーク」「フォートナイト」「第五人格」「Undertale」「PS5」

ドラマ…「麒麟がくる」「私の家政夫ナギサさん」「ノーサイド・ゲーム」「MIU404」「恋はつづくよどこまでも」「あなたの番です」「半沢直樹(2期)」

映画…「天気の子」「名探偵ピカチュウ」「アナと雪の女王2」「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」「記憶にございません!」「パラサイト」「Fukushima 50」「糸」

流行歌…「夜にかける」「香水」「マリーゴールド」「まちがいさがし」「夜明けまで強がらなくてもいい」「Imitation Rain」「痛み」

アーティスト…「Official髭男dism」「日向坂46」「櫻坂46」「NiziU」「IZ*ONE」「BTS

お笑い芸人…「四千頭身」「からし蓮根」「ミルクボーイ」「3時のヒロイン」「ガンバレルーヤ」「フワちゃん」「すゑひろがりず

YouTuber…「スカイピース」「QuizKnock」「まいぜんシスターズ」「にじさんじ」「ホロライブ」「ヒロシ」「ほんだのばいく」「動画無しで登録者10万人チャレンジ」

流行語…「ぴえん」「ヤバみ」「インフルエンサー」「上級国民」

グルメ…「エッグスラット」「バスクチーズケーキ」「進化系かき氷」「チーズティー」「Uber Eats」、飲食店の持ち帰り弁当全般

その他…「#KuToo」「ステイホーム」「ロックダウン」「ヒプノシスマイク」

 

 …この他にも、挙げようと思えばまだまだ挙げられますが、とりあえずこのくらいにしておきます。10年後にこのリストを見ると、きっと懐かしく思うことでしょう。恥ずかしく思うかもしれません。

 ところで、ここに挙げた「流行」に、全て興味のあるという方はいらっしゃるでしょうか?――おそらく、いないように思います。これらは全て、令和初め・2020年頃に流行っているものですが、その全てを好意的に摂取する人というのは、存在しえないと思われます。もしいるとすれば、それは「流行を追わないのが嫌で嫌で仕方ない人」という存在に留まるでしょう。

 私も、ここに挙げた事物の中に好きなものはあって、これらがどういうものか、なんとなく説明はできるつもりですが、全てを詳しく知っているわけではなく、ましてや興味があるわけではありません。

 令和初め・2020年頃という時代を未来から振り返ったとき、これらを享受する人たちのことを、その時代のステレオタイプな存在として受け取ると思われますが、何でもかんでも摂取する人間は、本来ステレオタイプではないのです。

 そうはいっても、その全てには、必ず「フォロワー」がいます。そうでもなければ、ここまで流行るわけがありません。そうであるにも関わらず、次々に新しいものが生み出され、飽きられたものは廃れていきます。人の心の移り変わることの何と速いことか――と、一歩退いて見出すことは、難しいことではありません。

 

 では、巷にいるお年寄りは、先ほど挙げた事物を、どれほど知っているでしょうか?――知っているのは、「上級国民」「ステイホーム」「ロックダウン」くらいで、他は聞いたこともないという方が、多いことでしょう。「近頃の若者は、変なものを好むんだなあ」といったところではないでしょうか。

 多くの場合、人は、年を取ると流行りのものに興味を示さなくなります。「興味がない」ということは、「価値を示さない」、つまり「どうでもいい」ということです。このような認識に基づけば、そこから何かを得るということはなくなります。彼らにとっては、若者とは「流行かぶれ」であり、「流行りを追うのに必死な若者」として、時として滑稽に映るようです。

 我々も、さまざまな流行を乗り捨て乗り換え、その先には、「流行なんて……」と思う日が来るのでしょうか…。

 

 現代社会を生きるヒントとして、年を取った人が、どのようなものを享受しているかを見ると、人間のあり方が、少しだけ見えてきます。

 彼らが好むものといえば、やはり「時代劇」に「演歌」に、「グランドゴルフ」、「カラオケ」、「宴会」、「ギャンブル」、「ダンス」、「スポーツ中継(相撲・野球)」といったところです。これらは、古くからあるものですが、その古さはものによって違いますし、必ず人を惹きつけるだけの何かがあるものです。

 たとえば若者は、「演歌なんて、どれも同じじゃないか」と思うことがあります。それをお年寄りが聞くと、むっとして、「近頃流行りの曲だって、どれを聞いても同じだよ」などと返されるはずです。

 これはどういうことでしょうか?思うに、「自分にとって価値のないものは、どれをとっても同じようなものに見えてしまい、興味をもつことで、その違いが見出せるようになる」ということではないでしょうか。結局、同じということはないはずなのですが、その違いを見出せるかどうかは、受け取る人の見識しだいということでしょう。

 事実、何も演歌好きに限らず、80年代~90年代のポップスが好きな人たちにとっては、今の音楽は「みんな同じように」聞こえるようですし、ポップスやフォークソングでさえも、演歌や音頭を好む人に言わせれば、「みんな同じ」のようです。

 「時代劇」や「演歌」は、今や高齢者向けの芸能とも揶揄されますが、新しい試みがなされないわけではありません。例えば、「荒神」や「大江戸もののけ物語」といった作品は、SFさながらの作品で、「永遠のニシパ」は、北海道開拓期のアイヌを舞台にした作品であり、俗に言われる時代劇のイメージとは、全く合わないものです。源平・戦国・幕末ばかりといわれる大河ドラマも、「いだてん」や「青天を衝け」のように、明治以降を舞台にした作品が出始めていて、旧来の「時代劇」観は大きく崩れているように思います。

 演歌歌手でも、さくらまやを始めとする新世代の登場や、プリンスとして知られる氷川きよし、「ラスボス」小林幸子のイメージが非常に大きく変わったように、昔のままではないのです。

 ここまで、なぜかNHKの作品ばかりを取り上げてしまいましたが、一連の革新の中では、NHKが先頭に立っているものと思われます。しかし、このような革新を受け入れず、本当に昔の作品だけを愛し、狭い殻に閉じこもる高齢者が多いことは否めません。「いだてん」の場合、若者の関心が高く、インターネット上の評判は良かったのですが、従来の大河視聴者層である中高年に受けなかったという分析もあります。

 結果として、新しいものに触れる人は、できるだけ視野を広く広く持つことで、新しいものというフィルターを通して、古いものに触れることができるものの、古いものばかり受け取る人は、視野が狭く狭くなっていき、新しいものは受け取れないという社会の構造が見えてきます。

 

 年を取れば、嗜好も変わるのでしょう。きらびやかでけばけばしくて、大味な若者文化よりは、落ち着いた老人文化のほうが、落ち着けるようです。それは、時代が変わったからではありません。年齢を重ねたことにより、視野が狭くなっているのです。

 視野が狭くなったことにより、何が起きるのでしょうか。私は、摂取するジャンルが偏っていくことで、思想も偏ると思っています。

 

 この世の中には、さまざまな人がいて、さまざまな考え方があります。視野が狭く、自分にとって都合の良い情報ばかりを集めていくと、それ以外を排除すべきものとして捉えることになるはずです。

 「物事について、ひとつの考え方をするのではなく、多面的なアプローチをする」ということが、ここ最近の教育においても、トレンドとなっています。では、巷にあふれる思想というのには、どのようなものがあるでしょうか。

 「竹島は日本の固有領土である」「中国船籍の船により、侵犯が行われている」「原爆投下はアメリカの罪である」「最近の若者は年寄りを敬わず、無礼な事ばかりをしている」「若者には気迫がない」「自分はコロナにかかっても重症化しないからと、若者が繁華街に出ている」という言論は、どこかで聞いたことがあるでしょう。必ずしもお年寄りが抱いているわけではありませんが、少なくとも非常に浸透しているといえるはずのものです。これを裏返して、「竹島は日本の固有領土ではない」などという声が耳に入れば、きっと黙っていないことでしょう。

 では、「竹島問題」について考えうる全てとは、「竹島は日本の固有領土である」と「竹島は日本の固有領土ではない」の二律背反に留まるものでしょうか。

 文字面から見ればこの2派のどちらかに尽きますが、本来重視されるべきなのは、「まずどちらにつくべきかを考え、問題についてあれこれと調べ考えて、もう一度どちらにつくべきかを考える…」というプロセスを続けることでなければならないはずです。そうでなければ、日韓の主張は平行線となり、いつまでも解決しません。

 しかし、多くの国民が陥っているのは、「竹島は日本の固有領土である」という命題を真理とみなし、言う通りにならない者を敵とみなし、その背景や根拠については知ろうとせず、ただ自らの主張を通すために都合の良い情報だけを集めるという企みです。このレベルにとどまっている限り、「古地図」も「歴史書」も役に立たないでしょう。

 高齢者に限ったことではありませんが、なぜこれほどまでに視野が狭いのか、疑わずにはいられません。そうなる背景としては、物事のインプットが偏っており、そもそも偏った思考しかできない脳みそに陥っていることが考えられます。さらにその根底にあるのは、「好き」「嫌い」の価値基準が、古いままになっていて、新しい物についての興味が全く失せていることが挙げられるはずです。

 

 なにも、高齢者にアニメやゲームを布教することが、必要であるとは思いません。しかし、「若者の」文化として受け取られているものを、幅広い世代に伝えることは、絶対に必要であるように思われます。触れたことのなかったものに触れること自体が、価値観の上書きにつながるからです。

 かつて、「一億総白痴化」という言葉が言われました。これは今から60年以上も前に、大宅壮一というジャーナリストが提唱した理論で、普及し始めたテレビを槍玉に挙げたものです。いまやゲームやネットが普及していますが、さらに「白痴化」が進んだといえるものでしょうか。

 少なくとも、「白痴化」という言葉を知る人は、「テレビによる白痴化」より後を、その延長線上に捉えていて、「テレビによって汚されなかった純真な世代」→「テレビによってバカになったが、ネットやゲームからは守られた世代」→「テレビ・ネット・ゲームによってさらに汚染された世代」というように、「だんだん堕落していく」という価値観を持ち出してきます。

 このような価値観が信じられている以上、何か最近のものを知って、その凝り固まった思想を上書きする必要があるのではないでしょうか。

 そうしなければ、この社会は、どんどん後ろ向きになっていきます。あるいは、現代ばかりを無条件に崇めるようになります。今の時代はとにかく閉塞が叫ばれていて、「コロナ前に帰りたい」などと言われます。もちろん過去には戻れないのに、ただ手を伸ばして、自らの境遇を歎くといった、極端に後ろ向きな人間が、どんどん増殖していることは明らかです。

 世の中は分断し、人も文化も分かれ、交わることがなくなるのです。そして、その原因を、「共同体の崩壊」「社会の腐敗」といった外的要因に求めます。新しい文化が生まれることについては、「お前らが勝手に生み出したものだ」といわんばかりに、交わる気概を見せないのです。

 

 このような閉塞を打ち破る手段は、見聞を広める以外ないはずです。少しでも多くの人が見聞を広め、「温故知新」できる社会こそ、私の求める極致ですが、現状は極めて厳しいものです。

 令和が始まって1年半ほどが経ちましたが、まだ「昭和」や「平成」を生きる皆さん、「令和」は幸せな時代ですか?