【第76回】誰もが考えている

 こんにちは。平田将達です。6週ごとに出番が回ってくるわけですから、あまり手間のかかる記事を考えすぎると、何かと支障をきたします…。しかし、面倒な記事を書かずにはいられない性のようで、今回も、納得がいくまで書き連ねてみました。もっとメンバーが増えれば、落ち着いて記事が書けるわけですが……。

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 この世の中には、「イデオロギー」というものがあります。その意味を説明するのは困難ですが、端的に言うなら「考え方」、それも政治や宗教のような問題に対しての、各人の考え方を指すものと理解しています。そして、「左翼(左派)」や「右翼(右派)」といったレッテルによって、しばしば派閥が形成されます。

 現代では、「1人1人が違う感性を持っている」ことは自明のこととして知られており、細かな部分まで全く同じ考え方をする人はいないはずです。しかし、考え方のある部分に共鳴するからといって派閥が生まれ、しばしばその中心に位置する人の考え方に、人は傾倒します。

 これはどういうことなのでしょう?例えば、「忠君愛国」「一億玉砕」を信条に、我が国民が一致団結して、敵国と戦った時代がありましたが、なぜそんなことができたのか。

 「軍部の独裁により、そうならざるを得ない時代だった」と言ってしまえばそれで片付きますが、しかし、それでも腑に落ちない部分があります。「誰かに強制されて敵対した」とは言い切れない部分があるように思うのです。

 戦後の日本は、アメリカによる間接統治を経て、主権を回復しましたが、その後も親米路線を貫き、冷戦時代の日本は「西側」の国とされました。その反面、一部の国民は、アメリカのことを「米帝(アメリカ帝国)」と呼び、嫌っていました。その中には、共産主義イデオロギー(反資本主義、反西側)の影響も見出せるものの、全員が共産主義者であったとは到底言い切れません。右翼とされる人の中にも、親米と反米があり、細かな信条の違いを見ていけば、1人1人の思想が雑多に転がることになります。

 「面倒だから、自分の言うことに従わないやつはみんな敵だ」としてしまえば楽ですが、それをまともな心を持つ人間としてみなすわけにはいきません。突き詰めるなら、この形態は「独裁」と言うものですが、独裁は右翼のすることとして信じられています。本当にそうでしょうか?かつて左翼は、「革命」のもとに国家転覆を企み、あらゆる公権力を否定してきましたが、その根底には、「全てをぶっ壊せば世の中は良くなる」という思想があったはずです。私には、両者はむしろ近しい存在のように見えています。

 左翼と右翼の分類には限界があるという話なのですが、かつては、この世界のあらゆる場所で、「左」と「右」の闘争が行われていました。そもそも、世界そのものが、「西」と「東」に分断されていた時代があるのです。これは、第二次世界大戦後からベルリンの壁崩壊までの短い期間に留まることではなく、もっともっと普遍的に、対象を変えて続けられているものと思います。(今や、世界情勢を指すのに「新冷戦」という言葉が使われるようになりました。かつての東側の筆頭が、ソ連から中国に移っています)

 原始時代から絶えず戦争が続いていることを考えると、我々人類は、つねに何かと戦っているようです。その対象が言語化できなければ、恐怖を感じるでしょう。ゆえに、我々は「敵」を見つけ、時に仮想敵さえ見繕い、戦います。しかし、本当の敵が何者なのかをうまく措定できないとしたら、これほど恐ろしいことはありません。こうして、我々は、誰かと敵対してしまうのでしょう。

 戦時中の日本であれば、敵はアメリカ・イギリスあるいは中国であり、社会主義共産主義者あるいは無政府主義者であり、天皇への忠誠を誓わない「非国民」でした。では今はどうでしょうか?日米安全保障やG7の立場から中国やロシアを敵視し、自公連立政権の立場から社共を敵視することに大義を見出すことは可能であるとしても、それが何者かによって強制される世の中であって良いはずがありません。結局、個人が考えに考えて、判断を委ねられるものとされています。

 しかし、報道機関・その他多くの個人によって、さまざまな言説が巷にあふれており、いくら中道を目指したところで、自分にとって都合のよい情報を手に入れてしまうために対立派閥を理解できないのが現状です。また、「自分の考え」とされるものが、本当に自分の頭で考えられたものなのかについては、自信を持てるものではありません。

 

 こんな世の中ではありますが、より賢く考え、賢く生きるためには、1人1人の人間に目を向ける必要があるのではないかと感じます。どんなに強大な派閥であったとしても、根底にあるのは、人の考えです。「左派〇万人vs右派〇万人の衝突」「国民の支持率〇%」という表現を見るばかりでは、その根底にある各人の考え方など見えません。その中で、人としての思考回路をくみ取ることは、必要ではないかと思います。

 いくら親米の世の中であるとはいえ、米英を中心とする連合軍によって家を焼かれ、肉親や知人を失ったような経験を持つ人ならば、「アメリカを好きになれ」と言われたとして、そう思えないのも無理はないでしょう。「あの時のアメリカと今のアメリカは違うんだ」と言われたとして、とうてい信用できるものではありません。そして、その経験をお持ちの方は、今のところこの世に生きていらっしゃいます。そう遠くない将来、戦争を知る世代が全員お亡くなりになったとしても、彼らに影響を受けた世代(我々若者世代も影響を脱しきれない)が生きている限り、「怨念」にも似たその思想は残ります。さらに、アメリカに恨みを感じるいわれは、戦争だけではありません。米軍基地問題、安保法制、TPPなど、恨みを募らせる要因は多くあり、言いがかりまで含めるならば、無数に存在するといえます。

 これらアメリカへの不満ばかりを濃縮して、幼い頃から繰り返し煽動し続ければ、誰であれアメリカのことが嫌いになるでしょう。しかし、我々の社会で行われてきたことは、それだけではありませんでした。

 アメリカのような連合側の協力によって、我が国は復興し、また優れた文化習俗がもたらされたことも事実です。もちろん、日本人も努力して、焼け野原からの復興がなされたわけですが、日本人単体でそれを成し遂げるのは、特に物質面において不可能であったのではないのでしょうか?(戦後の日本が手にしたものとしては、都市部の上水道や道路・鉄路の整備、栄養事情の改善などが挙げられます)

 それでも、かつての敵国であったアメリカのことをよく思えない人間は、「復興は日本人のたゆまぬ努力によって成し遂げられた」という一面ばかりをことさらに強調して連合国に支援されていた事実を無視し、「米帝は日本人の生活を自国式の文化によって汚染した」などと平気で吹聴し、悪しざまに言います。(個人的には、そのような態度に腹を立てながらも、そう刷り込まれたために物事を正面から受け取れないことには、むしろ憐憫さえ覚えます)あるいは、目まぐるしく変わっていった戦後日本の変化についていけず、得体のしれない恐怖の根源として、アメリカのことが嫌いになった人もいることでしょう。

 逆に、その他の国のことを嫌うあまり、アメリカのような西側の国を盲目的に信じ、敵国と認定した国の悪い所ばかりをことさらに強調する人もいます。国のみならず、日本国政府、特定の人種や立場の人間、宗教、性別などなど、「イデオロギー」という言葉の意味を少し拡大するならば、この世のあらゆるものに敵対の構図が当てはまってしまいます。(さすがに、「AKBグループ」ファン対「坂道シリーズ」ファン、「巨人」ファン対「阪神」ファン、「きのこの山」派対「たけのこの里」派、「にじさんじ」ファン対「ホロライブ」ファンの対立までをもイデオロギー論争に含めるのは無理があるでしょうが、場合によっては、彼らは明確な敵対関係にあります)

 イデオロギーの対立は、客観的事実の認定にさえ影響を及ぼします。例えば、福島第一原発の冷却処理に使われた微量の放射性物質を含む水のことを、日本国政府「冷却水」と呼ぶのに対し、政府に敵対する勢力は、盛んに「汚染水」と、「汚染」という語を用いて原発の弊害を盛んに広めています。同じ「水」のことを指していることは明らかであるというのに、政治信条によって呼称が異なるわけです。

 

 このような呼称の違い、考え方の違いは歴史観にも影響を及ぼしており、積み重ねると、過去の歴史の見え方が、随分と変わってくるようです。真実は1つしかないというのに、遡って真に客観的な歴史を記述する術がないために、過去のことは何とでも言えてしまうのです。日本史においては、身分制度としての「士農工商」の存在や、応仁の乱の後の混乱ぶり(俗に言われるほどの混乱ではなく、無政府状態というにはほど遠かった)について、実証的な立場から批判がなされました。

 日本史においての究極の問いは、「天皇126代は、どの程度実在していたのか」ということです。おそらく今後も決め手は現れないので、各人が好き勝手なことを言うことしかできません。中には、実証的態度を全く捨て去り、自らが築き上げた物語の中に浸っている人さえいます。同じく、「日本人とは何なのか」という問いも、特定の方向に態度を誤れば、日本人を神格化することになってしまうため、注意が必要なものです。

 戦後の日本においては、日中戦争や太平洋戦争は、「侵略戦争」であったかどうかという点が問題になりました。(「侵略戦争であった」というのが国としての公式の立場ですが、波風立てるのを嫌ってか、明言が控えられる傾向にあります)主に右翼が、この立場を否定し、今もそう考える日本国民は多く存在します。侵略に対して、あの戦争は「自衛戦争」であったとまで言い切る人さえいます。「侵略」であったという事実は認めなければならないのですが、「侵略」と「自衛」という対立もまた、完全なものではないでしょう。

 対して左翼は、「侵略であった」ことを積極的に認めており、その点は歓迎されるべきことなのですが、「当時の軍部」と「今の我々」を切り離して考えており、両者の普遍性に目が向いていません。国内における清算はすでに終わっており、自分たちが政治に携われば、同じ過ちは繰り返さないとでも考えているのでしょうが、そう甘いものではないと私は思っています。

 それに対して、左翼側に立つ人間は、あの戦争のことを、「右翼がやった戦争だ。我々左翼は弾圧されて痛い目に遭った」と思うことにしています。左翼の歴史観として、「右翼ばかりが国家を牛耳ってきた」ことが信じられており、正しい思想を持っている自らは、常に被害者の側に置かれ続けるのです。たしかに、天皇を敬い、社会主義共産主義者を排除する政策は極右的ですが、そうとも言い切れません。国家の改造のため行われる尊王攘夷も、欧米からのアジアの解放を意味する「大東亜共栄圏」の建設も、むしろ左翼的な一面を持っています。やはり、戦争や内戦は「左」「右」の対立のみで片付けられる問題ではないように思えます。

 それでも、「自分は悪くなかった」と思ってはばからない日本人は、左右どちらにも多いといえます。左右どちらにも正解はなく、ただ戦争を遠ざけ、平和を望むようにするのが良いのでしょうが、その骨子となる平和のための政策をめぐって、今なお対立が起きているのが現状です。

 ここまで、左右の対立の構図には限界があるという趣旨で論を展開してきましたが、特に冷戦が終わったあたりから、「左」と「右」の対立は弱まり、むしろ「左」「右」に単純化できない問題が増えました。さらに、「左」でも「右」でもない「中道」を目指すべきという気風に、世の中が動いたのです。

 中道とは、左でも右でもない存在ですが、「左翼」「右翼」という定義が時代によって揺れ動いている以上に、不安定かつ同意の得られにくい立場でもあります。ようは、左翼に見える集団を糾弾できる立場ですが、そういう自分は何者なのかが明らかでないのです。結局のところ、左であろうが右であろうが、自分にとって気にくわない派閥を糾弾するワイルドカードのような立場ながら、その実態は左傾・右傾のいずれをも嫌って揺れ動く存在のようです。(一方に偏って歩み寄りをしないのは問題でしょうが、はなから両方を悪と決めつけ、自らは立場を表さないのもどうかと個人的に思います)

 世の中で起こる犯罪の数々を見ても、左なのか右なのか実態の見えづらいものが多く起こされています。かつて東アジア反日武装戦線が起こした「三菱重工爆破事件」といえば、どう見ても新左翼によって起こされた凶悪犯罪で、日本社会党浅沼稲次郎委員長を殺害した少年は、明らかに右翼に決まっています。

 しかし、相模原の障がい者施設で起きた大量殺人、川崎の小学生を狙った通り魔殺人、京都アニメーションの大量放火殺人が、どのようなイデオロギーに基づいて行われたのかは、全く明らかになりません。犯罪が左右のイデオロギーを離れて起きている以上、どちらの立場からもこれらの殺人は説明できるわけではなく、殺人に至るほどの怨恨の有無も判然としません。この2件の動機は、お金が欲しかったというわけでもないようです。

 我々の住む社会で、このような不可解な事件が連発しているあたり、もはやイデオロギーが人を惹きつけず、左右の対立は終わったのだという指摘もなされています。その因果について、私は明言できませんが、社会や集団に対しての怨恨を伴う大量殺人・無差別殺人のような凶悪犯罪でさえ、左右イデオロギーの対立を離れて起きるようになっているわけですから、イデオロギーのせいで犯罪が起きているとも、犯罪が起きるのはイデオロギーのせいであるとも言えなくなってきているのではないかと感じます。明言はできませんが。

 

 ただ、いくら左右の対立が弱まったといっても、決して対立が消え失せたわけではありません。左右どちらかに偏った言論をなす存在は相変わらず存在しており、インターネット空間においては、「ネトウヨ」対「パヨク」の構図が見られます。この呼称自体は、かつて一部の右翼が「ファッショ」、一部の左翼が「トロツキスト」などと呼ばれていたことに通じますが(どちらもほとんど死語)、主にインターネット空間で闘争が行われる点に違いがあります。

 それでも、「ファッショ」「トロツキスト」が、かなり限定された集団のことを指していたのに対して、気に入らない右翼は誰でも「ネトウヨ」、気に入らない左翼は誰でも「パヨク」と認定されるように変わってきているように思います。最近は、Twitterを眺めていても、「かくも争いの多い媒体であったか」と感じることが増えました。もちろん、その全てが「ネトウヨ」対「パヨク」の構図で行われるものではないのですが、恨みや憎しみは、より深まったといえるのではないでしょうか?

 そして、21世紀の世界では、「ヘイトクライム」に分類される凶悪な犯罪が起きることが知られています。日本では大規模なものはあまり聞かないものの、先に挙げた相模原の殺人は障がい者への怨恨、京アニの殺人は京都アニメーションへの怨恨が動機とされます。そして、世界的にもっともっと深刻な動機となりうるのが、「民族」「宗教」「思想」などの対立です。

 ヘイトクライムを象徴する事件として知られているものに、2019年にニュージーランドクライストチャーチ市のモスクで起きた銃乱射事件があります。この事件の犯人は、ムスリムを敵視しており、国内の移民を排除する思想を持っているとされます。また、犯行前に「The Great Replacement(「大置換理論」とでも訳そうか…)」という文章を公開しており、そこで自らの思想を表明していたそうです(今は公開が停止されており、見ることができませんでした)。

 問題は、この犯人が移民排除を考えていたために、「白人至上主義」「極右思想」の持ち主であるとされていることです。この世界は、白人によって支配されてきており、白人社会に移民が増えれば、「白人至上」の立場からこのような事件が起きるものと理解されています。

 私が海外を知らないからかもしれませんが、個人的には、この主張を即座に理解することができません。なぜなら、「白人」の「右翼」によって、そうでない人間が抑圧されていることが前提とされているからです。

 今回のアメリカ大統領選挙では、右翼で白人至上主義を唱えているとされる共和党のトランプ前大統領が、国内融和を求める民主党のバイデン大統領に敗北しました。国を二分するほどのすさまじい戦いでしたが、「悪逆非道の限りを尽くした極右トランプ政権が、正義の名の元によって下された」と、本当に言い尽くせるものでしょうか?

 この点が腑に落ちないまま、今日もどこかで犯罪の種が根付こうとしているのです。国内と世界のいずれにおいても、殺人やテロの実数は1970年代頃のほうが多かったというのに、かつての構造で理解できないような出来事が相次いだために、社会不安が増大しています。新型コロナウイルスCOV-19の世界的大流行によって、ますます世の中は不安定になっているように感じられます。「コロナのせいで起きた」とされる犯罪もすでに出てきていますが、我々はこの社会の実態を、思想の対立を、どのような軸で語るべきでしょうか?「左翼」対「右翼」の構図は、これからの社会においても社会不安や政策を語るのに、適格であり続けるでしょうか?

 「左翼」と「右翼」の一方を「善」なる存在として決めつけ、もう一方を悪とするのは、やはり合わないのではないでしょうか?


 差別主義者には、「レイシスト」の蔑称が与えられます。この語は、とても強烈なニュアンスで使われてきました。レイシストを駆逐するため、著名人の差別発言をあげつらう「レイシスト狩り」がTwitterなどで行われることがあり、数年前の差別ツイートが発掘されたことで、実際にあるウェブ小説作家が廃業に追い込まれました。

差別は決して許すべからざることですが、気に入らないもの全てに対して、「レイシスト」の汚名を着せることで、社会がより良くなるものでしょうか?気に入らないものを見つけた場合、黙ってはいられないのが人間であるという本質がこの件に現れていると思います。

 差別ツイートというわかりやすい「悪」ならばいいのですが、「悪」の認定も、どんどん難しくなってきています。2019年に常磐自動車道であおり運転が起きた際に、「ガラケー女」と誤認された女性に誹謗中傷が相次いだ件で、当該ツイートをリツイートしたTwitterユーザーに刑事告訴が行われることになりましたが、訴えられた彼らの中には、自らの良心に基づいてリツイートすべきと判断した人も、ツイートを見るや脊髄反射リツイートのボタンを押した人もいるはずです。

 2021年に福島県沖で発生した地震の際には、記者会見をする加藤勝信官房長官の顔の部分が、AIによって笑顔に改竄され、不謹慎な態度を取っているかのようなネガティブキャンペーンがなされたこともありました。あの笑顔が本物かどうかを、確実に見抜くのは、人間には不可能な技です。

 現代は、何が正義で何が悪かが見えにくくなっている時代であり、全く汚れることなしに生きていくのは不可能であるかのように思えます。しかし、正義のもとに悪を認定し、駆逐しようとする人間は、それでも感情の向くままに行動しています。その結果、何気ない発言によって、人生が台無しになる人も出ているわけです。

 ならば、LINEもTwitterFacebookInstagramもせず、2ちゃんねるなどの掲示板に書き込まず、その他一切の言論を発表せず、人目につかないところで生きていくのが、もっとも良い手段なのでしょうか?(それでも、知人に晒されて攻撃を受ける可能性はある)

 そういう考え方も実際にあり、インターネットが普及して間もない頃は、「ネットは利用しない」という方針を表明する人もいました。しかし、最近は聞かなくなったのは、そのような沈黙には耐えがたいと感じる人が増えたのか、インターネットやSNSが普及したために、そもそものリテラシーを持たない人を除いて、ほとんどの人が何らかのSNSを利用することを選択したということではないのでしょうか?世の中のさまざまなニュースを聞いて、口を挟みたくなるのもまた、己の心の欲するところです。

 

 1人1人違う考えを持っているはずなのに、人はどうして群れをなし、敵対するのでしょう?最後にこの点を明らかにしておきたいと思います。やはり、誰もが思想を持っていて、何かのために行動するためなのでしょう。

 なぜ特定の人と思想が合い、別の人とは合わないのかを考えるため、人間の行動について、私見を3点挙げてみます。

 

①人は、知っているものしか選べない。

 人間とて、全知全能の神ではないので、物事の理解が及ぶのは、自らが見聞きした範囲のことに限られます。さまざまな場所に、さまざまな境遇の人がいるので、物の見方はそれなりに多様化しそうに思えます。しかし、少なくとも現代の社会には「大衆」という存在が想定されていて、その範囲内では、物の見方や考え方は、それなりに規定されることになります。少なくとも、「大衆は存在しない」と言い切ってしまうのは、よほど斬新な考え方であり、(仮にここだけでも)大衆は存在するものと見て良いはずです。

 どんなものを見てどう考えるかという方向は、自らの頭で考えずとも、それなりに決められています。要は、「自分が正しい」と思った方向のものを支持するだけで生きていけるのですが、いかなる派閥の中でも、その中にいる誰もが一枚岩のように一貫した思想を持っているわけではないということは、忘れてはならないことです。

 

②人は、一度抱いた悪い印象をすぐには克服できない。

 「あの時アイツはどうしようもないヤツだったが、今は良くなった」という構図は、誰しも憧れるものです。特に、自らのお陰で人を良くできたという自負が得られるなら、必ず鼻が高くなるに違いありません。しかし、現実には、一度抱いた悪い印象を払拭して、何か良い結果がもたらされたという経験は、少ないのではないでしょうか。

 人は第一印象を強く記憶する生き物のようです。ならば、それなりに信用のおける機関から、ひとたび誰かの悪評を受け取ってしまえば、その悪評を払拭するのは難しいように思えます。特に政治の世界では、「悪者」をでっち上げて批判することが行われていますが、その「悪者」は、いかにして悪者なのか、自らはどのように考えるかという点について、どこまで自分の頭で考えて判断できているでしょうか?…かくいう私も、自信がありません。

 ただ、あまりにも「正義」と「悪者」の交代が激しいため、「正義」と「悪者」を入れ替えることに抵抗がなくなってきている人がいることは心配しています。例えば、我が国では、55年体制以降に2度の政権交代を経験しつつ、自民党が中心となって政治を繰り広げてきました。その結果、「自民党日本新党新進党社会党自民党民主党自民党立憲民主党」のように、支持する政党やその根底にある政治思想さえもがコロコロと変わってしまう人がいるのです。ここまで揺れ動くのは、極端であるように思えます。自らの頭で判断した結果ならともかく、メディアや大衆の言う「正義」に乗せられた結果であるならば、やはり歓迎されることではありません。

 

③人は、自らの過ちになかなか気づくことができない。

 立場を異にする人から何らかのアドバイスをされた時、素直に受け取ることができるでしょうか?正直に言って、なかなか難しいことです。自分が正しいと思っているうちは、せっかくの忠告も、うっとうしいようにしか聞こえないものです。しかし、自らが間違っていると気づくやいなや、急に自らの愚かさに気付くことになります。このような経験は、誰しもあるはずです。

 「自分のすることが全て正しいと思っている」「身内には甘い」という文句は、誰であっても自分事として捉えるべきもののはずですが、ネットでこのような文言を検索してみると、政府などの公権力を批判する文章が多く出てきます。それを書いている人は、本当に自分のことも公平に捉えられているのでしょうか?そこを、私は疑っています。

 もちろん、「身内に甘い」を裏返して、見せしめのごとく身内に厳しくすればいいと言いたいのではありません。公平かどうかという点が重要です。政治家のような、目立つところにいる人物が、甘い考えをして批判されているのを見れば、糾弾したくもなるのですが、「人のふり見て我がふり直せ」という態度でありたいものです。

 

 この世界は、さまざまな人のイデオロギーにあふれています。何度も書いているように、人は1人1人違う考えを持っています。ある集団の考えは広まるのに、ある集団の考えは埋もれてしまうということがよくあります。ならば、世論を盲目的に信じるより、誰もが何かを考えていること、特定の層によって誰かの考えが埋もれていると気付くことは、その分視野を広げることになるはずです。誰の目にも映らない部分にも、誰かの考えが埋もれているのです。

 考えることを放棄して、目を背け、閉ざしていても生きていける時代であるからこそ、私は考えることを放棄したくないと思っています。世間が報じることを鵜呑みにして生きていけば、何かがこぼれ落ちるのではないかという気になります。大衆の1人として、世の中がより良くなることを願っており、そのためには、血の通った人間の思考を知っておくべきではないかと感じる今日この頃です。