【第87回】『音楽文』が終わる
どうも。くぼはるです。
社会人へのカウントダウンが始まった今、中学生や高校生の頃の自分を思い返す時間が増えた。中学生の頃の僕は、イヤホンで蓋をして世界を拒絶していたように思う。死にたいわけじゃないけど、生きるのが嫌で仕方なったのでとにかく体を音楽で満たしていた。まさに中二病まっさかり。アーティストの歌詞や息遣い、この曲を歌うとき、考えたとき、この人何を思っていたのだろうか。そんなことで頭がいっぱい。
最近、当時のような気持ちで音楽を聴くことはめっきり減って、耳馴染みのいい音を「消費」するような聴き方をしていた事に気が付いた。15歳と22歳でここまで音楽の捉え方が変わるなんて。なんだか寂しい人間になった。
それでは本題。
『音楽文』という文章投稿サービスをご存じだろうか。
大規模フェスや雑誌で有名なロッキング・オン・グループの運営で、2017年からサービスがスタートした、音楽に関する文章を投稿できるサイトである。このサイトが2022年3月をもってサービスを終了するんだそうだ。
正直な話、流行らなかった。たぶん。だから終わるのだ。
しかし、このサイトには、サイト閉鎖と共に埋もれるにはあまりにももったいない秀逸な作品で溢れている。
いくつか好きな投稿を紹介する。
一つ目は、2009年に亡くなったフジファブリックのVo.志村正彦の遺した楽曲たちを、終助詞という切り口で解説した傑作である。ここで内容には触れないが、「若者のすべて」を存じている方ならどうか読んでほしい。
この投稿者は34歳らしい。34歳になっても、ここまで音楽の考察に思い馳せられる生き方に憧れを抱いてしまう。
二つ目は、クリープハイプと自身の7年間を重ねた作品。文章からありありと情景が浮かぶ文章力と表現力で投稿者の苦しみと、救いが感じ取れる。この投稿も非常にお勧めする。
二つ目の投稿者は本文で、
「クリープハイプに支えられて生きてきました。」こう思っている人は多いだろうし、間違いなく私もこう言える。言葉にすると、えらく簡単に聞こえる。〝支えられる〟ということは、その前に〝倒れそうになる〟ということだ。
と語っている。
世の中の音楽に支えられと語る人々は、僕を含めてきっと総じて強い人ではない。相対的に弱さがある人々が救われる瞬間、救われた瞬間を共有できる媒体は、まだ必要なんじゃないだろうか。
音楽文に投稿される文章は、音楽批評と呼ぶにはあまりにも私的で、詩的すぎる。そんな彼らの綴った文章がどうか世に残されますように。
それでは。