【第89回】77年の距離

 こんにちは。平田将達です。なかなか時間が取れない今日この頃ですが、相変わらず自己満足のための記事を書き続けております。この記事を読むことで、後からでも何かしらの気付きが得られるならばこれほどうれしいことはありません。

 こんな私にできることは、目先の記事をより良いものにすることくらいではなかろうかと思って、今回も入魂して執筆させていただきました。今回のテーマは「時代の連続性」です。流し読みでもしていただければ幸いです。

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 去る8月15日は、日本にとって76度目の終戦記念日でした。76年前、この国の至る所が焦土と化し、その瞬間も多くの人々が危機に追いやられていた中で、日本は本土決戦の道を諦め、無条件降伏を果たしたのでした。あれから4分の3世紀以上が経ち、日本の国土に敗戦直後の面影はありません。この年月の長さといえば、戦後すぐに生まれた世代が働き終え、後期高齢者になるほどのものです。

 この長さを比較によって表してみると、明治維新(1868年)から終戦(1945年)までが77年であるのに対して、来年(2022年)で終戦(1945年)から77年ということがいえます。つまり、来年の時点で、終戦からの経過年数が、明治維新から終戦までと同じになるということです。このことに気付いて以来数年間、私の中では、4分の3世紀に相当する「75年」よりも「77年」を大きな節目として位置付けてきました。

 もちろん、物理的に同じ長さであるとはいえ、体感的な長さまで同じであるとは言い切れません。戦後の日本は激動の時代を迎えてきたとされますが、ある程度の長さのことを「つい昨日の」ように感じてしまうのが人間の性です。歴史の教科書には戦後史の記述が乏しいように、我々は近い時代ほど時の経過を認識できていないのではないかと感じさせられます。

 例えば、2000年の東京の景色を、映像を見るなどしてイメージするならば、それは1945年の東京とは全く違う光景に違いありません。行きかう人はオシャレな服を着ているし、高層ビルが林立する中を歩いていることでしょう。

 この光景を目にすると、今と変わらないではないかという気にさせられてしまうのですが、よく見ると、確かに今とは違う点もあります。2000年の時点では、地下鉄の中でスマホを開いて、ワイヤレスイヤホンでYouTubeにアクセスして好きなバーチャルYouTuberのASMR動画を再生することはできませんでした。その他、目に入る建物が今と違うとか、人々のファッションや、街中に貼ってあるポスターの内容など、現在との違いをいくつも見出すことができるでしょう。なぜなら、2000年と2021年は21年も離れているからです。例え2000年が昨日のように思われたとしても、その景色は昨日のものではありません。

 昔のことならば完璧に記憶されているのかといえば、決してそうはいきません。昔というのは記憶の彼方に潜むものであり、思い違いをすることがありますし、美化することも貶すこともできてしまいます。ましてや経験していない時代のことをよく語れないのは、そもそもよく知らないことが原因であるともいえます。

 では、昔のことは語れないのかと言うと、これもまた当たりません。日本に生きる我々であれば、だいたいの人が「旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代(南北朝・戦国)→安土桃山時代→江戸時代→明治→大正→昭和→平成→令和」という大枠を作っており、それぞれの時代がどんなものであったかは、その人の持つ知識を使って語ることができるはずです。そして、もっと知りたいと思うならば、本を読む、映像を見るなどの手段で情報を得ることができます。それは、あらかじめ作ってある大枠に新たな知識を上塗りし、間違ってはめてあるパーツを外して取り換えるようなもので、これを際限なく繰り返すことでどこまでも詳しくなれるものと考えています。

 しかし、歴史を扱うのは難しいことで、なかなか自由に出入りできるものではありません。いかに知識を上塗りしたところで、昨日の記憶をそのまま今日に持ってくることはできないのです。そして、難しいのは、川が流れるように移りゆく歴史を、どのように記述するかということです。

 先ほど挙げた「明治維新→敗戦」と「敗戦→2022年」を例に挙げると、この2区間の時間の流れは本当に同じかどうか気になったとして、このことを客観的に検証する手段はありません。まさか、「原始人のような素朴な社会では、時間の流れはゆっくりだ」などというように、我々のイメージで語るわけにはいかないでしょう。ただ、77年という物理的には同質な時間の流れがあるだけです。

 日本史の時代区分を先に挙げましたが、時代区分は好き勝手になされるものです。戦後の日本は、1945年8月15日からスタートしたものとして、「あれから〇年」といった体で語られます。私も、「76年」「77年」という長さを引き合いに出し、明治維新から終戦までと同じ年数に差し掛かっていることを指摘しました。

 しかし、区切った前後が全く別の世界になるかといえば、必ずしもそうではないのです。例えば、戦後は1945年8月15日から始まったとはいえ、日本が降伏を決めたのはその直前数日間にわたっての会議の成果ですし、降伏文書に調印して正式に終戦協定がなされたのは9月2日のことでした。また、8月15日の時点では、樺太・千島や南方戦線において、日本軍はまだ交戦状態にあり、彼らは降伏の報を聞き次第、順次停戦していったのでした。少しずつ移ろうのが歴史の本質で、その積み重ねが歴史であるとするならば、まるでグラデーションのように色が移っていくその「揺らぎ」を、どのように記述するかが腕の見せ所ではないかと思います。

 先の段落では、日本の「降伏」について揚げ足を取るようなことを書きましたが、実際に戦争を語るならば、長いようにも短いようにも捉えることができる時間の流れ方を、極めて慎重に検討しなければなりません。単に「戦争の頃」を漠然と指すだけでは、見えるものも見えてこないのです。

 第二次世界大戦においては、まさにその時代区分が肝心で、「戦争はいつ始まり、いつ終わったのか」という点についてどう考えるかによって、見え方が大きく変わります。

 太平洋戦争として、アメリカ・イギリスと戦ったのは4年弱ですが、日中戦争と区分するならば中国とは8年間以上も戦ったことになります。満州事変から起算するならば「15年戦争」と呼ばれますし、極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)では、1928年からの17年間に起こったことが戦争犯罪として審理の対象とされました。日本史においてはあまり聞きませんが、2度の大戦の舞台となったヨーロッパにおいては、第一次世界大戦第二次世界大戦を連続したものとして語ることさえあります。「どこからどこまで」語るのかを明確にしなければ、戦争を語ったことにはならないのです。

 そして、先の「戦争」というものに対して、我が国のリーダーたちがどのように対処してきたかを簡潔にまとめると、以下のようになります。

 

①清浦奎吾(1850-1942)

官僚出身。1922年に没した山県有朋の後を受けて枢密院議長に就任し、次いで首相に任命される。組閣後間もなく高橋是清加藤高明犬養毅護憲三派による倒閣運動に遭い、総選挙で大敗して内閣総辞職。その後も死去する直前まで政治に携わり、重臣として満州事変や太平洋戦争開戦を経験する。

加藤高明(1860-1926)

官僚出身。1900年に第4次伊藤内閣で外務大臣を務める。立憲同志会を経て憲政会の総裁となり、立憲政友会高橋是清革新倶楽部犬養毅とともに清浦内閣を倒し、首相に就任する。普通選挙法と治安維持法は「アメとムチ」と評価される。肺炎によって首相在任中に死去。

幣原喜重郎(1872-1951)

外交官出身。1924年から1927年まで外務大臣を務めた時、まだ統一政府が成立していなかった中国(中華民国)の内政に干渉することを拒否し続けた。戦後の1945年には首相を務め、GHQ幹部と協調して戦後日本のあり方を模索した。

田中義一(1864-1929)

陸軍から政治家に転身し、立憲政友会の総裁として首相になる。首相就任時には外務大臣幣原喜重郎を任用せず、自ら兼任して中国の内政に干渉した。在任中に治安維持法の最高刑を死刑に引き上げる。関東軍によって中国軍閥の指導者である張作霖が暗殺され、その対応を巡って昭和天皇に叱責された後、内閣総辞職。その後まもなく病死。

犬養毅(1855-1932)

西南戦争に記者として従軍し、1890年の第1回選挙より衆議院議員に連続当選。革新倶楽部から立憲政友会に合流し、1929年に死去した田中義一の後を受けて総裁となり、首相に任命される。軍縮満州事変の不拡大方針などに尽力したが、軍部の反感を買って将校に殺害される(五・一五事件)。

高橋是清(1854-1936)

官僚出身。日銀総裁を経て、1913年に第1次山本内閣の大蔵大臣として入閣する。1921年に首相の原敬が暗殺された後、立憲政友会の総裁として首相となるが、閣内の混乱によって短命に終わる。昭和恐慌の後には田中義一内閣の蔵相として日銀総裁井上準之助と協力し、経済の立て直しに尽力する。岡田内閣のもとで6度目の蔵相を担当した際は軍部と対立し、陸軍皇道派のクーデターにより殺害される(二・二六事件)。

岡田啓介(1868-1952)

海軍。首相在任中に二・二六事件が起き、襲撃を受けた。弟が身代わりになって一命を取り留めたものの直後に内閣総辞職。その後も海軍の重鎮として重臣会議に携わり、陸軍の東条英機と対立して終戦工作に走る。江戸時代生まれの首相経験者として最後まで生き残った。

西園寺公望(1849-1940)

公家出身。戊辰戦争では最前線に立って指揮した。1903年立憲政友会の総裁となり、1906年から1912年にかけて桂太郎と交互に首相を務め、「桂時代」の政治を築く。その後、推薦されて元老となり、特に山県有朋松方正義が死去してからは、最後の元老として、太平洋戦争開戦の前年に90歳で死去するまで多年にわたって政治全般に影響力を持ち続けた。

近衛文麿(1891-1945)

華族出身。首相に3度選ばれた。第1次内閣在任中に日中戦争が勃発し、不拡大政策は失敗。第2次内閣では政党を全て解散させ、「大政翼賛会」を組織。第3次内閣ではアメリカとの全面戦争を回避しようとしたが、交渉決裂によって内閣総辞職。直後に東條内閣のもとで太平洋戦争が開戦する。開戦後も政治に関わり続け、終戦直後に憲法改正に取り組もうとするが、GHQによって戦犯に指定され、出頭を拒否して自殺。

東條英機(1884-1948)

陸軍。二・二六事件後に皇道派狩りを行い、関東軍参謀長となった。第2次~第3次近衛内閣で陸軍大臣を務めた。アメリカとの交渉決裂後に首相に就任し、太平洋戦争を開戦させるも、戦局悪化により総辞職。終戦まで重臣会議に携わり、一貫して本土決戦を主張する。終戦後に自殺未遂を図り、失敗してGHQに拘束される。東京裁判では昭和天皇擁護に終始し、死刑判決を受けて刑死。

鈴木貫太郎(1867-1948)

海軍出身。二・二六事件で襲撃されて意識不明となるが、奇跡的に回復を遂げて復帰する。戦争末期に首相に選ばれた。戦争継続について態度を明確にすることを避け、ポツダム宣言による降伏勧告を一度は黙殺したが、原爆投下直後の御前会議で降伏が決定され総辞職。8月15日には終戦に反対する陸軍の国粋主義者によって、再び襲撃を受ける(宮城事件)。首相就任時77歳は歴代最高齢記録。

東久邇宮稔彦王(1887-1990)

皇族にして陸軍大将。日米開戦前に首相候補に挙がったが、木戸幸一の反対にあって断念。鈴木内閣総辞職により首相となるも、戦後処理についてGHQに反発して総辞職。その後皇籍から離脱して東久邇稔彦と名乗る。歴代首相経験者として最も長生きし(102歳)、昭和天皇より年長ながら、より後まで生きた。

吉田茂(1878-1967)

外交官出身で、中国に長く駐在して特に満蒙権益を主張した。また日米開戦を阻止しようとした。戦争末期に終戦工作によって投獄されたが、その経歴がGHQに信用される。東久邇宮・幣原内閣で連続して外務大臣となった後、日本自由党鳩山一郎公職追放されたことにより後任として総裁になり、首相に就任。在任中にサンフランシスコ平和条約日米安全保障条約を締結。後に自民党にも参加した。

鳩山一郎(1883-1959)

弁護士出身。犬養・斎藤内閣で文部大臣を務めるも、汚職疑惑により辞職(帝人事件)。戦争末期には軍に反対して一時隠居する。戦後は公職追放を受けるが、復帰すると日本民主党の総裁となり、自由党と合併して自由民主党(自民党)の初代総裁として首相に就任。日ソ共同宣言を樹立。

岸信介(1896-1987)

官僚出身で、満州国の経営に関わる。東條内閣の商工大臣として入閣し、太平洋戦争開戦を迎える。戦局が悪化する頃、東條とは対立し、東條内閣総辞職に関わり、また早期講和を主張した。戦後はA級戦犯に指定されるが、不起訴となり釈放。公職追放解除後に自由党に入党し、自民党結党後は石橋内閣の後を受けて首相に就任。60年安保改定は大規模な反対運動を巻き起こし、成立を機に辞意を表明するも、暴漢に刺されて重傷を負う。

三木武夫(1907-1988)

明治大学卒業後、1937年に衆議院議員に当選。日米開戦に反対した。戦時中の翼賛選挙を経て、戦後1946年の選挙でも当選し、片山内閣のとき逓信大臣として入閣。自民党に結党から参加した。佐藤栄作の後継としての有力候補の「角大福中」の一角とされる。ロッキード事件により辞任した田中角栄の後継として首相に就任したが、自らも攻撃されて総選挙で敗北し、総辞職。死去するまで51年連続で衆議院議員を務めた。

中曽根康弘(1918-2019)

海軍出身。太平洋戦争中は軍人としてフィリピンに赴く。連合国の攻撃によって部隊が壊滅し、仲間の死をも経験した。戦後、1947年の衆議院総選挙で当選。自民党に結党から参加した。「三角大福」の一角とされ、首相に就任した際には、アメリカを訪問してレーガン大統領との協調路線を表明した。「戦後政治の総決算」を標榜するも、野党(日本社会党日本共産党など)からは厳しく追及される。衆議院議員在職56年。昭和の首相経験者として唯一令和まで生き、101歳で死去した。

村山富市(1924-)

漁師の家に生まれた。陸軍に入隊し、幹部候補生として終戦を迎える。浅沼稲次郎に心酔し、日本社会党公認の大分県議会議員を経て1972年に衆議院議員に当選。1993年に自民党が下野した総選挙で、山花貞夫の後任として日本社会党委員長となり、さらに自社さ連立政権が成立すると首相となる。終戦50周年の際には、侵略に対する謝罪を盛り込んだ「村山談話」を発表した。この記事を投稿した時点で存命の首相経験者として最年長(97歳)。

福田康夫(1936-)

父親は首相経験者の福田赳夫。40歳の時にサラリーマンを辞め、自民党から政界入りした。9歳の時、疎開先の群馬県で前橋空襲を目撃している。

安倍晋三(1954-)

祖父は岸信介。大叔父に佐藤栄作。父親の安倍晋太郎内閣官房長官外務大臣などを歴任。戦後生まれとして初めて首相を経験した。神戸製鋼勤務の後、父親である安倍晋太郎の秘書となった。中曽根首相が訪米してレーガン大統領と面会した際、外相であった父に同行して中曽根・レーガン外交を目の当たりにしており、首相就任後には「戦後政治の総決算」「アベノミクス」など、中曽根やレーガンを意識した発言を行った。「美しい国」政策を打ち出し、自虐史観からの脱却を呼びかけるなど、従来の「戦後」観を刷新することを意識した。終戦70年の際には、「安倍談話」を発表した。

 

 …と、かなり長いわりに断片的になってしまいましたが、76年前に終わった戦争に対して、誰がどのように関わってきたかを、各人のつながりを匂わせながら記述してみました。彼らは日本を動かしてきたうちのほんの一握りの存在に過ぎず、実際にはもっと多くの人たちが複雑に絡み合って、政治を成し遂げてきたことは言うまでもありません。

 単に「戦争に関わった」ことを説明するにしても、人生のどの部分で戦争と関わるかによって、果たす役割はかなり異なっていることがお分かりいただけるかと思います。江戸時代生まれの長老は、人生の最後の部分で戦争を経験したのであり、逆に幼いころに戦争を経験した世代は、今もまだこの社会に生きているのです。

 また、田中義一西園寺公望、清浦奎吾のように、戦争に影響を及ぼしておきながら、終戦までに亡くなっている要人もいます。彼らがもし戦後まで生きていたならば、やはりGHQによって裁かれていたものと思います。戦争とは、歴史上の1地点を指すのではなく、長さを持った出来事であり、途中で没する人も、途中から関わる人もいるということです。

 終戦からすでに76年が経過しました。76年という時の流れは残酷で、終戦の時に14歳だった世代は90歳になっています。戦争を経験した世代というだけで後期高齢者に限られるのが2021年の現状であり、大人として戦争に関わった世代は、もうほとんど亡くなっているはずです。戦後生まれがまだ残っているとはいえ、もはや戦争の記憶はほぼ失われてしまったのではないかと感じさせられるほどです。

 実際、子どもから高齢者のぶんまで多様に保持されていたはずの戦争の記憶は、今や子どもの頃に経験した世代がほとんどとなったことから、多様性をずいぶん失ったといえます。今、戦争経験者から当時の体験を聞くにしても、それは子どもの頃の体験談であり、それが貴重なものであることに間違いはないのですが、その体験談が戦争の記憶の全てではないのです。すでに没してしまった世代の記憶に触れるためには、著作を紐解くなどして、自ら体験するには一生かかっても体験しきれないほどの誰かの記憶に接しなければなりません。もちろん、記録に残るものが全てというわけではなく、それでもなお多くが失われています。そしてその記憶を薄れさせるのは、時間の経過です。

 時間が経てば経つほど、いろいろなものが失われていくに違いありません。戦争を経験した国家である以上、平和を推し進めるのは当然のことですが、歴史観・政治観には歪曲と捏造が付き物であり、当事者の記憶が薄れるにしたがって、何やら怪しげな言説が入り込みやすくなるのではないかということも実感しています。76年という、明治維新から終戦までの長さにほぼ等しい時間が過ぎた今、我々は戦前や戦時中のことをどれだけ理解できているでしょうか?

 戦争が終わった後の我が国は、ものすごい勢いで変化を遂げました。再び戦争を繰り返したくないという思いから、それまでの思想も組織も否定して、迅速に国家を作り変えてきたのです。焼け野原に建物を建てるのも、戦前・戦中にはなかったものを持ち込むのも、戦争によってもたらされたものを否定するということであり、その思いがなければ、決して成し遂げられなかったと思います。そして、戦前的・戦中的なるものは、徹底的に糾弾され、排除されました。終戦が出発点であったと言われるゆえんです。

 一方で、終戦は完全なリスタートではなく、何でもかんでも終戦から出発したわけではないことも述べておかなければなりません。そもそも、当時の人々は戦前から生き続けていたのであり、生きている以上、その人の思想が完全に生まれ変わるわけではないということです。何でも戦後が正しいといえるわけではないのですが、実際にはそのように働きかけられ、それまでの歴史観を歪めてまで戦後を礼賛してきたのでした。戦後の社会に適応できず、辛酸を舐めるようにひっそりと生きた人もいたのでしょうが、彼らにとっての歴史は語られることなく、時間とともに淘汰されていったのでした。

 終戦からこの国が出発したという表現は、好んで使われるべき場面もあるでしょうが、上述の理由から、いかなる場面でもふさわしいといえるものではありません。故意に歴史を歪めてまで作り上げられた戦後社会は正しいとは思えず、相変わらず突っ走ったままの「戦後」観はいつの日か問い直されなければならないと考えています。特に、COV-19に悩まされているこの社会を否定したいがために、「大本営発表」「本土決戦」などと言う戦時中の用語を持ち出し、今の社会を安易に戦時中の社会になぞらえるような物言いには賛同できません。この社会を記述するのに、一面をねぶっただけで済ませているようにしか見えないからです。このような考え方を持つ私のような人間が現れたのも、戦争から距離が生じたからなのかもしれません。

 では、戦争の記憶は、いつまで残るのでしょうか?すでに76年が過ぎていますが、人間の寿命が限られているために、戦争を知る世代はいずれ完全にいなくなります。しかし、それで全く消え去ってしまうのではなく、彼らが伝えようとしてきたものは、(歪曲や捏造も含めて)後世に残るはずです。

 同時に、戦争の惨禍も消えません。これだけ戦争を否定し続けてきたにも関わらず、我が国は「枢軸国」の一員として蔑視され続けることでしょう。自分が生まれていなかった頃の先人の責任を負わされるというのは、感覚的に理解しづらいことかもしれませんが、世界を見れば、奴隷貿易ユダヤ人の迫害など、何百年あるいは千年以上前の歴史的事実が持ち出されるような場面は少なからずあります。

 抑圧の象徴として話題にされる中で最も大きなテーマは、何百年にもわたって行われ続けた植民地政策で、第二次世界大戦の戦況にも影響しました。植民地の住民は、今もかつての宗主国に対して良い感情を抱いておらず、禍根も弊害も至る所に残り続けています。日本はそこに土足で踏み込んだわけですから、76年ごときで負うべき責任が消えることはないでしょう。我が国の先人は、そのような負い目を持ちながら、別の場面では世界に貢献し続け、今の国際的地位を築いてきたのでした。

 妬みも恨みも、誇りも驕りも、全て前の時代から引き継がれたものです。なぜ我が国の当時の指導者は、戦争への道を歩んだのでしょうか?考えても明らかにし尽くせることではありませんが、少なくとも「大正デモクラシーのもとで憲政の常道が確立されていたが、クーデターの連続によって軍部が台頭すると、いきなり侵略政策を取り始めた」などという浅い理解のままでは絶対にいけないと思います。

 日本人がアメリカやイギリスに恨みを持ち始めた原因としては、アメリカに対しては黒船来航の際の不平等条約締結や排日移民法による日本人への抑圧、イギリスに対しては薩英戦争や日英同盟破棄の際の対日圧力などが指摘されています。幕末に鹿児島で起きた薩英戦争は、イギリスの戦艦から大砲が発射され、民家に着弾するという事件でした。日本が戦争に走ったころ、このことを記憶する世代はかろうじてこの世に残っていたはずで、またそれを経験していない世代にも屈辱として記憶が受け継がれていたはずです。先の大戦においてよく引き合いに出された「神風」は、鎌倉時代に元(中国)が侵略してきた際に吹いた風のことです。鎌倉時代を知っている人が昭和に生きていたはずなどないのですが、遠い昔の記憶が絶えず受け継がれ、故事として引き合いに出され続けて喧伝された文句なのです。

 当時の日本人を擁護するために連合国側を貶めようとしているわけではないのですが、これらによって日本人が恨みを持っており、戦争に向かう要因として機能したことは間違いないと思います。戦争を防ぐには何よりも国際協調が必要であり、また「戦争の参加国は全てが悪」とされる根拠が確かなものとして浮かびあがるようです。

 今の世の中を見るに、「平和」を標榜し、戦争につながると勝手に認定したものを遠ざけて満足するような勢力が、過去の歴史的事実と真剣に向き合おうとしているとは思えません。どこが不十分なのかと問われれば、私も苦しむのですが、一面的かつ浅薄な歴史観・政治観から脱却することが必要であり、それを表に出して平気でいられるようでは情けない限りです。そして私は、自分なりに研鑽を続けています。自分にとって都合の良い知識や解釈ばかりを身にまとい、知ったような顔をできるのが今の世の中ですが、そういう人間が巷にあふれている現状は、とても苦しく思います。ゆえに、少しでも己を磨き上げたいのです。

 戦前も戦後も、常に現実は辛く非情なものであり続けています。目にするのも嫌になるような事実に目を背けず、先入観を排して歴史的事実と向かい合うことが、万人に受け入れられ後世に通用する歴史観を持つための一歩ではないかと考えます。年号暗記を嫌がり、過ぎたことを自分に関係ないものとして切り離して考えがちな現代人にとって、終戦からの経過年数が、明治維新から終戦までとほぼ同じ長さに達しているという事実は、現代まで続く「流れ」としての歴史に向き合うための感覚を養う材料のひとつになりうるのではないでしょうか?