【第91回】良いプライド≒正しい見下し方の作り方

今週は伊藤迪が担当する、第2回目の記事となります。

好き勝手書いておりますが、よければお付き合いくださいませ。

 

突然だが先日私は、岡田斗司夫氏の動画『【これからの日本】正しい上から目線!』に触発され、自分のFBに『スッキリ解消・イトウのジレンマ』と題した投稿をアップした。

 

これにはいろいろな反響があり、投稿した自分とすればかなり面白かった。

というわけで、その投稿の文章を以下にそのままコピペしてしまおうと思う。しかし面白さのあまり40分ほどで書いたのでよく覚えていないが、恐らく2400文字以上あった気がするし、かなり過激なことも書いたと思うが、一応読んでみていただければと思う。

 

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※深夜テンションで言いたい放題ですがご容赦ください。

 

 自分は良くも悪くも普通ではない。いや、普通になりようがないと言うべきだろうか。

経歴、やっていること、考え方、視点etc…。

普通という言葉が大量に併せ持つ矛盾や疑問点はこの際置いておくとして、恐らく間違いのないことだろう。

 そんな自分にはジレンマがあった。それは、

活動をしているうち、

「つい偉そうと思われてしまう」とか

「歯に衣着せぬ物言いをぶっ放す」などなど。

これだけならばジレンマにはならないが、人と比べてできるところとできないところが元来激しい自分には、そのジレンマは常に付きまとうし、そんなんだから母にはいつも注意されてきた。

それも何かしゃべると大抵言われるので、なんなら自分を出さず、自己アピールすらしないのが母の美徳なのかもしれないと思うまであった。

それに対し自分はどうこう言うつもりもないし、なんなら今の自分が多少なりとも輝けているのは、ある側面ではその教えを気にし続けてきたからだと思う。

しかし最近、どうにもジレンマと感じることが多くなったのだ。

それは、自分を出すとつい、「偉そう」とか「見下したよう」とか「ひけらかしている」という『自己評価』になってしまうことだ。

 

でもなぜ偉そうに思われるのか?という話だけれども、自分はほかの人とは違いすぎるからである。

まあ、数字で表してあるのが知能指数しかないのでこれを多用してしまうが、一人の人間の中に、偏差値52と83が共存してしまっているのだから、当然と言えば当然である。

だから人と同じような行動はしてこなかったと思う。

でもその分だけは悩んできたし、努力もしてきた。

しかし、はたから見ると偉そうだったりするらしい。

なにも偉ぶる気などさらさらないし、自分の経験を話しただけなのに、である。

第一、自分のしてきたことを胸高らかに宣言して何が悪いのか?と。どうにも矛盾だらけで基準が定まらない。

まあそれが、アスペルガー症候群的なところだと言われればぐうの音もでないのだけれど。

しかしそれゆえに、何をするにもどこかで自信が持てない。

 

まあそんなこんなで考え続けていたとき、ある1本の動画に出会った。

岡田斗司夫「【これからの日本】正しい上から目線!」

自分はこれにすごく衝撃を受けた。

ここで岡田氏が言っていることを、大きくまとめると、

「プライドを捨てろというのは幻想」

 ↓

「プライドが高いことは祝福と呪いで義務が伴う」

 ↓

「プライドを下げるのではなく、プライドに見合う自分になろう」

「上から目線で見下すのなら、見下していい仕方でしよう」

という話。

 

岡田氏自身も動画で粗の多い話と言っていたが、少なくとも自分はこれに感銘を受けた。

曰く、見下すにも悪い見下し方といい見下し方があるとのこと。

まあこれに関しては動画を見ていただくのが早いと思うし、あんまり転用するのも敬意に欠けるうえプライドが許さないのでしないが。

が、すごくザックリいうと、見下すなら「こいつらバカだ」ではなく、「こいつらのために自分はこうしよう」と考えろ、ということらしい。

 

これを自分の体験に当てはめてみると・・・。

例えば、拘束力のない学生活動で周りが動いてくれないとき、ついつい

「こいつらなんで活動に積極性を出してくれないんだ?自分んらの経験にもなるものじゃねえかっ!」と考えてしまいがちだが・・・。

逆に考えて、

「こいつらは動かんし、ぱっと理解してくれん。ならばわかってもらえるような説明をして、動きたいと思えるようなモデルになろう!」

と考えると、いい見下し方になるよ、ということ。

もっと言えば、見下すということは問題に気付いたということだから、気づいた人間には責任がある。そして責任を果たした時点で、いい見下し方になっている、ということらしい。

 

「らしい。」と書いたけれども、これにはものすごく納得している。

思い返せば、自分も人のことをバカにしまくっていた時期があるし、何ならその時は嫉妬だらけだった。

でもそうしてひと時の悦に浸ったところで、充足感なんてものはまるでなかったわけだ。

それがいつしか、嫉妬の仕方すら忘れてしまって、色んな人に囲まれお世話になって毎日楽しい自分がいる。

でも実際社会を見渡すと、悪い見下しかたをしている人がゴロゴロいる。そんななかにも例外はあるかもしれないけれども、大抵陰口を叩かれるか、上の役職へ行けばクソ上司呼ばわりにされるのがオチだけれど。

 

でもそれは当然である。上にもちらっと書いたが、見下せるところに気づいてもその責任を果たさない人間には、充足感なんてものは得られなくて当然だし、得られないからこそ得ている人間に対して嫉妬に苦しむのも、また因果応報だと思うわけだ。

まあこれは過去の自分に対しての見下しでもあるが。

でもそうして、「こいつら生産性のない見下しかたしてやんの笑」などと見下す暇があるのならば、見下してもいいだけの努力や経験を積んで、正しく見下せる人間になって、今を生きる自分として、プライドと中身を釣り合わせていけばいいということだと思う。

そしてこれはきっと、自分がよく言っている、

「気づきに感謝する」ということと表裏一体な気もしてくる。

その発言を相手に言うこと自体は純粋なる敬意なのだけども、その実、「気づきに変えて進化できた自分」が面白くて気持ちよくて言っているのも間違いないこと。

 

それでもし、「プライドに追い立てられる自分」とか、「プライドがプライドになる自分」だったり「年老いてプライドの中がスカスカになってボケていく自分」とかっていうのが怖ければ、「俺は無理なプライドは持たずに生きている賢い人間です!」というプライドを作って行動していけばいい。

 

しかしこれをブッ放していると、自分で言っておきながら昔の天動説みたいに

「星の動きが説明できなければ軸を増やせ!」的な荒唐無稽な暴論に聞こえないでもないが、結局自分は大量のプライドを持って生きていて、かつそれを捨てられないわけで。

それに対し足掻いて苦しくて能率を下げるくらいなら、それを活かして楽しく自分をデッかくしながら生きようぜっていうイメージ。

それに、自信がないほど虚勢を張りがちなのが生存本能だし、逆に言えば自信を持つことで、妙にひけらかすこともなく、無駄なく安定感を持って、イタい遠吠えをせずとも穏やかにアグレッシブな活動ができるということ。

まあある種の悟り的なもんだろうな。

 

結局何しても目立つし面白くするし、一生モブにはなれないのだから。

なんか楽しく生きられそうなので、とりあえずやってみる。

動画を通じてこのアイデアをくださった岡田斗司夫氏に、感謝です。

 

そしてもし興味を持っていただけたなら、他の動画も見てみられてください。

かなり面白いですから。

 

 

というように、いかにも深夜テンション的な、過激さ満載の持論をド派手にぶち上げた投稿をした。

しかしこれは、過激とはいえある面では間違いではないのだろうと、自分では確信を持っている。

実際、今の自分は間違いなく『良いプライド』を持つことによって本領を発揮できたと思うわけであるし。

しかも、それ以前の自分を思い出すと、「俺はなんでこんなことを言ってたんだ?」とか、「何でこんなことをしてしまったのだ?」と思うようなことばかりである。

 

と、ここまで言ったらこの際洗いざらいゲロッちまえ!と思われる方もおられそうなので、いくつかぶちまけることにする。

まず岡田氏曰く、プライドとは誰かを見下すものであるそうで、恐らくこれは間違いないと思う。

そのうえで、ここにおいて悪いプライドというのは誰かをバカにしたあげく悦に浸って終わるとか、挙句一時期の充足感に酔いしれた挙句もつれて嫉妬するような、そんなマイナスに動くものと考える。

そしてここから先は先ほどの投稿では書ききれなかった範囲にもなっていくけれど、嫉妬したり悦に浸るだけで終わっていくと、結局自分の能力としては停滞するわけだ。まあそれは何もせず指をくわえて人に悪感情を募らせぶつけるだけだから当然。

それに、停滞は後退を意味する、なんて言葉もあるくらいだから、自分の地位としてはどんどん後退して、地獄のループに入るということ。

まあこれに関しては、自分は何度も経験してきた。

で、そんなとき何をしたかというと、自分より何かを持っている人を攻撃したわけだ。

例えば、立場をわきまえることもなく、あたかも自分が正義であるかのように長所を振りかざし、

「先生より俺の方が授業上手い!」と言ってしまったり、「なんであいつが級長なんだ!?」と言ってゴネたり。

当然ながら、そんなことを言っているのは周りが見えない証拠であるから、級長になることも、まして教鞭をとるなど、できるはずもない。

或いは自分が持っていないことを正当化するように、

「俺は学校に行けない。でもあいつらは苦も無く行けるじゃないか!だから俺は勉強しない!」

と、学校に行って必死に頑張る彼らのことを知っていながら攻撃してしまったこともあった。

 

今考えれば自ら品位を落としにかかる大馬鹿野郎だが、これもすべて、悪いプライドが為してしまうこと。

ある面では一種の現実逃避であるし、麻薬中毒のようなものだったと思う。

 

しかし。今の自分は少なくとも、その中毒症状からは抜け出すことができた。

 

ではなぜ抜け出せたのか。それは自分の場合、

 

「行動に過ちがあったと認識し後悔」

 ↓

「持ってきたプライドがぶち壊される」

 ↓

「悩み抜いて、ときに相談して、答えをある程度見つける」

 ↓

「行動して観測する」

 ↓

「成功したりやらかしたり・・・」

 

という、PDCA的な行動のカタチであった。

ただ、これを実行して繰り返していたとき実は、「いいプライドを持てばいいんだ!」なんてことは知らなかったし、そもそも自分の持っているのがいいプライドかどうか、自分はどういうふるまいをしているのか、それすらも分からなかったと思う。

つまり、人間関係における状況認識能力や経験値に大きな問題があったため、とにかく雲をつかむようにトライアンドエラーを繰り返すしかなかったというわけだ。

 

それゆえ自信をほかのところで補いながら、それでも幾度となく闇落ちし、乗り越えた末何年もかけてようやく、悪いプライドから来る魔のループを抜け出すことができたのだ。

 

だがそれをするには、これまで自分が信じて行ってきた行動や信念そのものまでもを作り変えてしまう勇気と、新しいカタチが見つかるまで考え続けなければならない、絶望的な疲労感とストレスに耐え抜くチカラが必要である。

ただそれが自分には大変重い負担であったから、通学中に自転車で居眠り運転をしたことだってあるし、何度も体調を崩し、何度も学校で倒れた。それにより、一日に活動できる時間が平均4時間しかなくなってしまったこともある。

 

それにより、周りの人との成長の差にも悩まされた。

学業にも私生活にも支障をきたし、周囲と比べ何年も後れをとった自分は、全日制の学校に進学することがかなわなかった。ただ、その代償によってはじめて私は、これまでしてきた過ちや後悔を失敗で終わらせず経験値にできるようになり、プライドにとらわれない思考と、暴走ではなく勇気を持った行動ができるようになったのだ。

 

そして新たに生まれるのは、良いプライド。

 

それはこの場合、

『自分は色んな人と接するなかで、成長できた』

『失敗して悩んでも経験値に変えられる人間だ』

『人に対して悪意をぶつけず、自分の力に変える方法を知っている』

等々。挙げればきりがない。

 

ここまで来ると読んでおられる方なら大体感じられると思うが、これでも堕落してしまえば『悪いプライド』になる恐れは十分にある。

 

それでも自分が『いいプライド』と言い切れるのは、プラスに考え続けて、楽に生きられるようになったという成功体験を積み上げてきたからに他ならないし、二度と魔のループに入りたくないという思いが、自然に自分を駆り立て続けているからでもある。

 

それに人間というのは、成功したと思ったことを繰り返す性質にある。ただその成功を維持しようと思えば、努力や労力を惜しまず、

「プライドを維持するために、持っているプライドに見合う自分へ自分を持ち上げようとすればいい」わけだ。

これは岡田氏が言われていたことを引用したものだが、自分の感覚からしても間違いないと感じたうえ、これ以上的確な表現を見つける自信が今のところないので、ここに記しておく。

 

つまり、プライドを持つことで自分を高めていく、そうすれば決してデメリットばかりにはならない!というわけだ。

 

しかしここまできて、何か思われる違和感はないだろうか。

自分が読者ならばこう感じる。

「プライドに合わせて自分を持ち上げても、偉そうとかって言ってくる奴おるだろ?」と。

 

これに関しても、全くその通りだ。特に学校のクラスなんかの場合ではその傾向が顕著だと感じる。

 

それは何故か、考えてみた。それは結局、自分と同じフィールドにいるのに自分より輝いて居たり、楽しそうにしている者たちに対する嫉妬でもあるわけで。するとやはり介在するのは魔のループだと自分は思う。

これに関しては一般にコントロールのしようがない、他人のループの巻き添えである。

 

まあそれは当然と言えば当然。自分が成功したからと言って他人がその『いいプライド』を持てるわけでは決してないし、まして人に自分のことが100%正確に伝わることは、断じてありえないからではないだろうか。

 

しかしそれも、自分がいいプライドを持っているならば、対処法はいくらでも広がる。

なぜならいいプライドというのは芯がきちんとできているから、かなり柔軟に変形させて対応できるものであるし、持っている芯と比較して些事と思えれば、受け流すことすら可能なのだから。

 

たとえば自分は、『他と違いすぎる自分』という要素を逆手に取り、自分というブランドで社会に貢献できること、即ち胸を張れる自分の姿を目指して『違うからこそできること』を実践してきた。

 

そしてそこまでやってしまえば、FBの引用にもあった通り「こいつら残念な奴らだなwww」と思ったとしても、そう思ってもいいだけの責任を果たして自分を大きくすること、つまり悪意すら力に変えることもできるようになる。

 

ただ、ここまで来る苦しさと比べれば、コスパは悪い。

それでもその苦しさを乗り越えたからこそ、肩の力を抜いて活動に打ち込めるようになり、一日16時間活動し続けて睡眠時間が4時間しかなくとも、悪意にあてられたり苦しいことがあろうとも、基本はノーダメージで済むようになった。そうしてみれば、今のところは成功だと思う。

 

しかし。そのコスパの悪さとストレスの量は明らかに異常であるため、自分のようにどうにか生きていられる事例というのは、案外レアなのだろうと思う。

 

ではなぜ自分はこうして生きているのか。

それは間違いなく、多くの方々に助けていただけたからだ。

ある時は人の道を教わり、ある時は暖かく受け止めていただき、未熟な自分でもチャレンジする機会をたくさん用意していただいた。

そのおかげで私は人を嫌いになることがなかったし、人のために生きるという指標も見つけることができた。

 

そして、全日制高校をあきらめ、フリースクールへ通うようになってからは、境遇の近い児童・生徒や、生徒ひとりひとりにあった指導をしてくださる先生方のおかげで、時間はかかったが自分の存在に価値があると認識できた。

それにほとんど拘束時間のない環境のおかげで、ほかのところにいては到底成しえなかった経験をたくさん積むことができた。

 

そしてこれに関して、「全日制をあきらめた」と書いたが、それから3年近く経った今振り返れば、この選択は大正解だったと思える。

それだけ、人とのかかわりは重要である。そしてそれ以上に、時に手段やプライドにこだわらず、自分に合った道を遠回りでも選んでいく柔軟性が、大切になってくるということだろう。

 

そしてそのおかげで、自分を高めつつ、人への感謝だけは絶対に忘れぬ人間であろう。人のために生き、人に寄り添える人間になろう。

 

自分のように苦しい思いをするこどもたちを応援する人になりたい。そう志を持つこともできた。

 

だから今も、これからも修練を積み、誰かに寄り添えるよう粉骨砕身駆け抜ける毎日だ。

 

そして最後に。

この投稿が誰かに刺激を与えられたならば、それはもう最高にうれしいことだ。

ただこの投稿に書いてあることは、あくまで自分の主観的経験に過ぎないからして、参考にならない場合も多いと思う。

ただその場合でも、何らかの形で思考のきっかけになればと思い、こうして公開することとした。

 

ここに生まれたことに意味なんてない。でも、生まれたからには楽しまないと。

誰もがギフトを持っている。時間を使えるプレゼントもある。

だからこそ誰もが、己に合った生き方を、思う存分すればいいと信じて。