【第98回】学びとは、学び舎とは。~異端を歩み続けた17歳の探究報告~

今週のリレーブログは、島根県益田市通信制高校3年生、伊藤が担当します。

色々と忙しい中、このブログを仕上げるのはなかなか大変ではありましたが、今回で終わり。初のブログ執筆でもあった本コーナーに関わらせていただき早3回目。慣れてきたところだっただけに実はかなり寂しい気持ちでおります。

 

そんななか、私がずっとテーマにしてきた教育という分野についてアイデアが浮かんできたので、思い切って記事にしてみました。

 

色々な想いが積もりすぎてかなり長くなってしまうと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

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学び、あるいは学習。

この言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか。

 

学校でのお勉強か、ありふれて感じる日々の暮らしか。

貴重だと感じたり、面倒だと感じたり、面白かったり苦しかったり。

 

恐らく人によってさまざまでしょう。

それは、立場によってもしかり。

 

教える側からすれば、本質を理解してもらいたい。

受験の指導なら、とにかく合格してもらいたい。

学ぶ側からすれば、上述のように様々。

 

とにかく様々です。

 

ただ私にはどうにも思うところがありますので、こうして文章化してみることとしました。

しかし私は、教育学を修めたわけでも、たいした学をもっているわけでも、まして成人すらしていません。

ただ唯一、異端から社会をみつめ、多くの方々にたくさん救っていただいてきただけの若造です。

それでも、そんな若造の感じたことが気になる!と思っていただけるなら、私史上最長の長~いおはなしですが、お付き合いいただけると幸いです。

 

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私にとって、学校のお勉強とは面白くも理解しがたい存在でした。

 

新しい視点が得られる一方、どうにも答えに決まりきった縛りが見え隠れするような、なんとも閉塞的で一方的な雰囲気があって、どうにも腹落ちしない不思議な感情を抱いていたからです。

 

ところが、そんなお勉強にもどこか意味があるはず。

その矛盾を補って余りある、利益があるから制度として存在するはず。

では一体、それは何か。

 

そう、小学4年のころからずっと考えてきました。

その結果が出つつあった昨年冬、私が考えていたのは、学校というものをなくしたらどうなるか。ということ。

とても実際にやることは不可能なので、思考実験を繰り返しました。

 

結果、学びたくとも学べない子供が多数生まれ、識字率など基礎的なところがまずダウン。

一般教養に含まれる共通認識が崩壊し現代社会を構成するピースが欠けることで、社会全体の効率低下や規模縮小が発生。

集合体の離散が重なり、現代社会の構造は崩壊へと向かうのではないか。そういう結論に達しました。

 

よって、学校とは現代社会に必要不可欠な存在であり、必要不可欠だからこそ作られ、また存在することを前提、基礎として、現代社会が成立している。

これにより、矛盾だらけに見える学修スタイルも、その実可能な限りの力を尽くして最適化された末のものであると理解できます。

 

ところが、実際目を向けてみると、現場では様々な問題が噴出しているのもまた事実。

実際私の身近にも、課題に意味がないと感じたり、量的、質的に実勢とマッチしていないと感じる人も多数存在します。

またそもそも学校という制度に収まることができなかった私のような存在もいて、周囲の価値観や常識との相違に追いつめられるような境遇のこどもも、かなりの数いることでしょう。

 

では、それはなぜ起きてしまうのか。どうすればいいのか。私なりにこの1年、考え続けてきました。

 

すると見えてきたことがいくつかあります。

 

まず、学びが変質してしまっているのではないか、ということ。

 

その最たる例が受験勉強の、とりわけ年号の暗記でしょう。東進衛星予備校長だった祖父と話してみると、受験勉強をすることに意味はあっても、年号の暗記などにはほとんど意味がなく、学びとはいえないとのこと。

実際、この問題は他方でもさまざまな機会で槍玉にあげられ、議論がされてきました。

 

ではなぜ、様々な機会でそのことが槍玉に挙げられるのか。

私なりにもその課題を考えてみましたが、確かにその通りと腑に落ちます。

なぜなら、年号を暗記したところでそれは単に時計の針が作るデータに過ぎませんから、その背景を理解しようとせねば情報、ここでは教養として機能しませんから。

 

よって、本来の目的であろう私たち現代人に必要な教訓や教養を修得するという目標からはあまりにも乖離しているのです。

 

そして本来、学びとは生活に活きてこそ。

或いは生活に活きている実感がそのときなくとも、将来役に立つ、なんてこともしばしばですが。

ともかく、そのために勉強をする、そうでなくとも最低限はさせるという行為自体は、素晴らしく、また正当なものでしょう。

 

ただ、すると大事になってくるのは、いかに学ぶか、なぜ学ぶか。

 

例えば、私はこれまで宿題という宿題をほぼやらずに過ごしてきました。それはその行為に全く価値を感じなかったからです。

後々になって、漢字や英語についてはしておくべきだったと後悔していますが、それもそれ。

 

学びたいと感じたからこそ、今私は漢字やその部首を自ら覚え直していますし、英語にも悪戦苦闘しながらですが、その時したいことをして積んだ経験の分だけは効率的に取り組んでいます。

 

そこからさらに、学ぶ必要性や楽しさを見出すことができるか。

 

またもうひとつ例を出すと、私は学校のテストや課題というものにほとんど価値を感じたことはありません。

ただ、点数と単位、資格が欲しいからやっているだけです。そうでなければ、全てボイコットします。

 

しかしそうであるならば、わざわざ高いお金を払ってまで学校へ入るというのは、果たして意味があることでしょうか。人生の時間のうち12年間も割いてきて、そのうえ学び続けることは本当に必要なことでしょうか。

ひいては、高卒資格や大卒資格などというもの(レッテル)には価値がないのではないか、そんな疑問さえ浮かんできます。

 

しかし。我々の生きる社会において、かなりの割合で学歴というものがものを言い、人を見る尺度として利用され続けている実態に鑑みれば、とりあえずそこに合わせて学歴を付けておくということは大切なことです。

 

ただ、私には空虚な自己啓発に感じて、苦手意識を禁じえません。

 

では私はなぜ空虚なものと感じてしまうかというと、学校で言われる点数や単位というのは、生徒あるいは学生がきちんと学習しているかを見える化するために、一方向からの尺度で疑似的にデータ化したゲームにすぎないと考えるからです。

もっと言えば、学問に正解を設けるということ自体すでにナンセンスなことですし、教師といえ人は人に甲乙つける資格を本来有していないと私は考えていることもあり、それはそれは大変空虚に感じてしまいます。

 

ならば同様に資格も、その人間を表しているというより、その人間に与えられた学ぶ機会を(実態はともかく)証明しているに過ぎない、となりますよね。

 

そのことに気づいた今年の夏以降、私は先生方に(志塾フリースクールの先生方のことを心からお慕いしているからこそですが)、連携している所属校から出されるわかりにく~い課題の改善をほとんど求めなくなりました。

世間話程度に周囲の生徒のいうそれに乗っかることはあるにせよ、自分からは言いません。

 

なぜなら、課題やテストというのは先述の通りのもので、そこから見えるのは氷山の一角。学修すべきものはレポートにもテストにもなく、教科書に、実学に、先生方の姿に、詰まっているのですから。

 

では、そんな作業と化してしまいがちなものを道具として生かし身のある学修とし、去りし時代を懸命に生きた人々の本質に寄り添い、彼らの残した知見や功績を我が身の糧とするにはどうすればよいか。

それには恐らく、試験のため、課題のためで終わらせず自らの意思で教科書を読み、猛烈な探究意思をもって全身全霊でかみ砕かなければならないのではないか。

 

そう気づいたからこそ、私は深い悔恨の念を抱いたものです。

どうして、レポートの薄っぺらさから脱却できなかったか。どうして宿題にこだわったか。

教科書に全てあったのに、読むだけで覚える頭はあるのに、考える価値観も経験も積んできて、興味を持って動くこともできるのに。

どうして、それに気づかなかったか。

 

その瞬間、教科書から答えを探す勉強から、先ほど言った教科書をかみ砕く勉強、つまり探究的、実学的学修へと、一気にシフト。結果成績も、学習時間が大幅に短縮したにもかかわらず爆発的に伸ばすことができましたし、その要領で受験に臨み、支えてくださった方々とともに大学合格も勝ち取りました。

 

そして今。私は新たな課題に取り組んでいます。それは、どうすればこの本質的な学びを広めることができるか。

どうすれば、教科書に詰まっている学修のタネをより多く活かすことができるか。

賢者は歴史にも学び 愚者は経験にのみ学ぶ。そういう言葉もありますから、本来のまなびならば、みんな今の10倍や20倍は学びを活かせるだろうに。とも思っています。

 

ただ、ここで忘れてはならないのが、学修に取り組むかどうかは、あくまで各々にゆだねられるものである、ということ。本来学びとは必要だからするもので、させられるものでないと言いましたが、まさにこの場合何らかの強制力が働いた時点で本質的学修たりえません。つまり、せっかくの機会を生かすも殺すも全ては学習者次第となってしまう、ということです。

 

これには、私自身課題感を持ってこどもたちと接するなかで大いに苦心しているところです。

 

しかし、冒頭に述べたような教育には、その強制力がふんだんに働いています。

結局、私の感じ続けてきた違和感とは、この強制力からくる学びの変質にあったのでしょう。

 

さて。ここでようやく、1つの大きな疑問のまとまり、「学びとは?」に、おおよその片が付いたと思います。

 

 

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ではせっかくですから、続いて学校とは?という問いにも向き合ってみましょう。

とはいうものの、私は教育学を修めたわけでも、教師を務めたわけでもありません。まして、成人すらしていません。

ただ、異端として孤高になりたいと生きた17年で感じたことから、述べていきたいと思います。

 

学校とは。みなさんにとって、学校とはどんなところですか。

先の学び同様、さまざまな感想がでてくると思います。

 

本稿冒頭にて、私は学校について、

現代社会において必要不可欠な場所」と書きました。

 

そしてこれはきっと、間違いのないことだろうと思っています。

 

しかし。本当にそうでしょうか。

正確に言えば、全員にとって本当にそうでしょうか。

 

学びは必要です。ただ、学校であることは必ずしも重要でしょうか。

 

私としては、学校とは本来行きたくて行く場所。或いは、本来ならば知性のデパート。

ところが実情は、社会に利用されている通過儀礼的場所、或いは何らかの強制力が働いて、システムに組み込まれる場所、というイメージです。

 

ただそのシステムも、自分は嫌いではありません。システムに逆らいさえしなければ面白いし、発見や多様性に満ち溢れた空間だと思います。

ただ少しだけ、私にはなじまなかっただけで。

 

先生方にもすごくよくしていただけたことからも、嫌いでない、というより好きな場所、というべきでしょう。

 

しかしそれならばなおさら、なじめなかったことが悔しくてなりません。よくしていただけても、気にかけていただけても、なじめなかったのですから。

 

ただ、そんな学校にも、ひとつだけ個人的に嫌いだなと思う側面があります。

いや、学校というより、社会の価値観というべきでしょうか。

 

学校が正しい、学校に行くことが素晴らしいこと、学校に行っていい成績をとるのが喜ばしい、などなど。

 

決して間違いではありません。決して、悪い考えとも言い切れません。

ただ、学校を動かすのも人間ですから、正しいとは言い切れません。先生のなかでも、大丈夫か?と思うような方も一定数おられますし。

それに、素晴らしいのは本来、学校に行くことではなく、望んで学校に行けることではないでしょうか。喜ばしいのは、いい成績をとれるということより、本気で楽しんで学べることではないでしょうか。

 

私の考え、違いますか。

 

もし間違っていないなら、一体いつから、その“些細な”言葉にすればたった1文字か2文字の勘違いは生まれたのでしょうか。

その“些細”なことで、どうして子供が苦しむのでしょうか。どうして、命を絶つまで思いつめるのでしょうか。

 

少しだけ、考えてみてください。

 

とはいえ。学べることは素晴らしいことです。学ぶ機会がないこどももたくさんいます。実際、日本でも数十年前まで、中学校ですらろくに学ばせてもらえないこどもがたくさんいました。

 

だからと言って学校は全面的に正しいのでしょうか。

学校に行くことが本当に素晴らしく、学校に行かないことが悪く、行けないことが悲しいことなのでしょうか。

 

例えば、自分に親しい友達がいないと仮定しましょう。

するとそれを心配する人はいても、怒ったり悪いことだと咎める人はそうそういないでしょう。

しいて言うなら、心配するあまり・・・ということはあるかもしれませんが、大きな筋違いであることはみなさん思われることと思います。

 

しかし、学校の場合そうではありません。行けないと社会的に破滅するかのように思わされます。

友達を作れるのも、学校に行けるのも、おなじく技術やパワーのいることで、どちらも尊いことです。

ではなぜ、こうも違うのでしょうか。

どうにも、腑に落ちません。

 

私が思うに、本当の学びというのは心や社会のゆとりあってこそ花開く文化です。そのゆとりとは、なにより自由な選択権を基礎とします。

 

とすると本当の学びというのは、選択権なく通過儀礼のように進学する現在の教育には、およそ成しえないことと感じてしまいます。

もちろん、先述のように個人次第でしょうし、生きていくうえで常識とされる社会一般の教養は必要不可欠な手段だと思います。

 

ただそれについても、まなびたい!と思う志なくして、まして学校に行くことが正しい、などという価値観で縛られたうえで修めるものでは決してないと、私は考えるわけです。

 

そんなとき、私たちは何を必要としているか。とりわけ、少数派の児童、生徒が何を本当に必要としているか。

 

決して、抑圧され画一的な教育ではありません。

発想を広く持った、掘り起こし共に育つ、共育です。

 

しかしその少数派と多数派を画一してしまえば、それはまったく本来の自由な選択権があるとは言えないとも思います。

 

つまるところ学校というのは、社会の中で存在があまりに大きいがために、ある種の信仰状態が生まれてしまっている。

そうとも言えるのではないでしょうか。

 

学校は知性のデパートである。そう私は先ほど述べました。それは、日常からその延長まで、たいていのものはそろい、たいていのことは効率よく手にできるからです。

それに、学校という存在があるとないとではその街の発展が大きく違います。というか、それがあるかないかで街の体力におおよその見当がつくほど、大きい存在、とどのつまりデパートなのです。

 

しかし、デパートを信仰する人はいません。

デパートがある意義の根幹は、購買行動における選択の自由が広がることにありますから、信仰対象たりえないというわけです。

 

というわけで。ずいぶん遠回りした話になったので、たいていの方は私の言わんとすることに想像がつくかと思いますが。

 

結局、学校とは人生を高めていく選択肢の1つに、本来ならば過ぎないのではないか?ということです。

 

そして、その街に学校という名のデパートがある意義が、人生の選択肢を広げることにあるのなら。選択肢を学校ひとつに限定するような価値観は、学校そのものの存在すら間接的に否定することになっているのではないか。

逆に、経済的にも立地的にも、境遇的にもなんのバリアもなく様々な学び方を利用できる体制、価値観、社会をつくることこそ、新しい教育にふさわしいのではないか。

そう、考えます。

そしてこれこそ、信仰じみた教育ではなく、本当に必要とされている、デパート的教育ではないでしょうか。

 

本当に大切なのは学校ではなく、まなび高めることのできる環境にあるこどもたちなのですから。

 

そこで私は、全ての学校の屋上に低額で気軽に使えるフリースクールを作ってしまえばいいとも考えています。

暴論かもしれませんが、このくらいでないと、多様な社会には対応しづらいでしょう。

 

そして幸い私は、学校の中でもそれに限りなく近い指導をしていただくことができ、家でも家にこだわらない教育として、地域の方に幼いころから一人前に扱っていただいてきました。

不登校になり、結果として色々な価値観に中てられることもありましたが、それでも3年前にはフリースクールに出会うことができ、本当の意味で自己実現をさせてもらえています。

 

これこそ、経験と学びのデパート、本当の教育ではないでしょうか。

 

 

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学校とは。学びとは。人生とは。

これはどこまでも、答えのない問いです。ただ、志さえあれば、状況と利用可能な資源の中で、うまく組み替えて最適化していくことは十分可能です。

 

逆に言えば、答えがない以上は最適でない状態で常に維持されているわけですから、最適に近づけるため、思考、実行、改善の停滞は決して許されません。

 

だからこそ、未熟な私なりの見解ですがこうしてまとめてみました。

 

これを読んでくださったみなさまには、ぜひ自分なりの見解と照らして、今一度考えてみていただければと思います。

 

6800文字を超える長文にもかかわらず、小僧の長話におつきあいくださり、ありがとうございました。

私の言葉たちが、どなたかの心にすこしでも届いたなら、幸いです。