【第22回】コロナ禍でも精神衛生を保つために

どうも。rerayブログへの投稿もはやいもので3回目、くぼはるです。コロナ生活が長引いていつの間にか電車に乗ることなく1ヶ月が経過していました。皆さんはどのようにお過ごしなのでしょうかね。家で干物になりながら「あつまれ!どうぶつのもり」ばっかりやっているのはよくないですよ。前置きが長くなりました。

今回はコロナ禍における僕の幸せについてというのが主題です。今までは自称サブカル担当と名乗っていましたが、自宅待機が長すぎて執筆意欲もわかず、とにかくコロナでの自粛生活で考えた事をつらつらと綴る事にします。

飲食店のバイトを普段しているのですが、コロナの影響もあり出勤日はなくなりました。外出もままならずニートのような日々を過ごして気が付いたことは「ニートするにも才能が必要だ」という事。堕落し続ける事はあまりにも辛く、こんなに働きたい気持ちで一杯になる瞬間が来るとは思いもよりませんでした。あ~働きたい。てか家に居続ける事がこんなに息苦しいなんて。室内にこもりきりになるという事は精神衛生の悪化を引き起こすようです。そして外出できないという環境は気晴らしする機会を減らす。もうね、やばいですよ。拍車をかけるように人間関係でそこそこ大きな揉め事を起こしたので、心がズタズタです。現在進行形で、いわゆる病んでいるという状態に限りなく近い思います。

そんなこんなで5月の頭、久々に散歩に出かける事にしました。毎日引きこもって、外出はたまにコンビニに行くだけの生活に危機感を感じての事でした。外の空気はおいしく、風も気持ちのよい日でした。少し歩いた場所にある運動公園のベンチに座って、知らないおじいちゃんたちの弾くギターやウクレレを聞きながらぼんやりしていました。

久々に、この時の僕は幸せを感じていたと思います。

こんな些細な事で幸せを感じてしまいました。でも、それで、それがいいのだと思います。

この生活をしていた気が付いたことは、この厳しい環境でもなんとか生きるために必要なのは「幸せの感度を上げる」という事。逆に考えれば「幸せのハードルを下げる」とも言えます。些細な瞬間、風が気持ちいいとか、快晴であるとか。その出来事をきちんと幸せと捉えてあげる事。それができればなんとか生きていけるはず。

そう考え始めてからはなんとか日々を過ごせているので心配には及びません。

また楽しく外でお酒を飲めるようになるまで、頑張って生きます。皆さんもお気をつけて。