【第96回】リスクと向き合う

 こんにちは。島根大学の平田将達です。とうとう、私が更新できる最後の記事になってしまいました。名残惜しいのはもちろんのこと、このブログに書こうと思っていた内容を複数用意していた中から、最後にどれを書こうかと悩むことになりました。その結果、今回の記事が生まれたわけです。

 私がさまざまに行動する根底に何があるのかという一端を、感じていただければ幸いです。

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 「後悔しないように生きる」ことは立派な心掛けですが、なかなかできるものではありません。私など、後悔しないために、できることなら多少無理してでもやり抜こうとする意志を持っているつもりなのですが、それでも後悔が生じることは頻繁です。「後悔などしていない」などと強がりたくもなるのですが、これが現状なのです。

 我々がこの社会で生活する中でも、至る所で後悔は生じます。「すべきことをしていなかった」ことが後から発覚したために、後悔が生じるのですが、これをなくすことは不可能かもしれません。Aのために手立てを講じた結果、相反するBに害が及ぶ……ということは日常茶飯事です。この世の中は、万人を幸せにはしてくれないようです。

 

 その理不尽さは、防災という分野に現れていると思います。「防災」「減災」を標榜するからには、起こりうる災害を食い止め、被害を減らさなければなりません。それができなかったとき、誰かの命や財産が脅かされるという結果を招き、後悔が生じることになります。

 何といっても日本は地震大国であり、国内のどこであっても地震のリスクからは逃れられません。また、1年のうちには必ず台風が日本のどこかを通過しますし、火山の噴火や大雪が思わぬ被害をもたらすこともあります。このことは、日本人ならば誰もが知っているはずであり、万全な対策というものが打てるはずなのですが、なぜか時には大きな被害が出てしまいます。

 私など、日本でなくても、どこかで誰かが傷ついたということをニュースで目にした時、悲痛な気持ちになります。日本人が被害に遭わなかったからといって、「よかった」という気持ちが生じることはありません。戦争や事件ならばともかく、災害で傷つく人が少しでも減ってほしいと思っています。

 しかし、さまざまな機関の努力もむなしく、「年々災害が減っている」と感じることはありません。災害を減らしたいと思うのは、少なくとも私だけではなく、おそらく誰もが思っているはずなのですが、なぜ災害は減らないのでしょうか?彼らの努力は無駄なのでしょうか?

 ――無駄でないとするならば、やはりどこかでジレンマに陥っています。誰かの幸せを追求した結果、災害という形で不幸が押し寄せていることが考えられます。もっといえば、防災のための対策でさえ、別の場面で災害につながっているということがあるかもしれません。例えば、積もった雪の重みによって家が倒壊することを防ぐため、積もった雪が地面に落ちるように屋根を急傾斜にした結果、落ちてきた雪によってたまたま建物の下にいた人がケガをし、また雪下ろしのために屋根に上がった人が滑って落下するといったような災害が――。

 このようなケースがあるために、対策はなかなか前に進まないのです。また、予算や労力の制約によって、対策が進まないこともあります。3年前には、大阪府で起きた地震によってブロック塀が倒壊し、小学生の女の子が巻き込まれて亡くなるという事故がありました。

 建物の強度は基準が見直されているというのに、全国各地には古いままのブロック塀が数多く残されています。おそらくブロック塀にまでは注意が向かなかったか、向いていても後回しにされていたのです。全国のブロック塀を全て頑強なものにするということ自体無理難題なのですが、仮に補強できたとして、それで倒壊しないという保証はありませんし、ブロック塀以外のものが凶器となって人を襲う可能性も排除できません。

 それでも、この痛ましい犠牲によって、全国のブロック塀が一斉に点検され、危険なものは処置が行われるという措置は現実に取られました。これでリスクは減ります。しかし、万全になるとは断言できません。また、その処置は、現に犠牲が出てしまったことを機に取られたものなのです。

 「犠牲が出なければ変われない」というのが、この社会の実態です。犠牲が出た時、その犠牲を生じさせない方法はなかったものかという点が批判的に検証され、注目が集まります。しかし、何が問題とされるかを完全に予測することは困難です。それまで正しいとされていたことが、実は失敗の原因として働いていたことが後から判明することもあるからです。

 一般に「災害」とみなされる範疇の外で起きることですが、新型コロナウイルスCOV-19の対応で問題点として、平成以降に行われた病院の規模縮小が問題となり、批判を浴びました。COV-19のような爆発的に拡大する感染症に対応するためには、病床を削減してはいけなかったのです。それでも、病床の縮小が行われたのは、財政や人員の観点から行われた、正当性のあるものでした。しかし、コロナ禍においては、この現状こそが仇となったのです。

 3.11以降、特に廃止の機運が高まっている原発も、火力発電からの脱却のために拡充されてきた発電方式でした。原発といえば危険なものとして認知されていることでしょうが、原発大国フランスでは、二酸化炭素削減を目的として新たな原発の建設が行われることが(大きな批判を受けながら)マクロン大統領から発表されたところです。

 今、病床を拡充し、原発を廃止することばかりに注目が行くようになっていると思われるのですが、果たしてこの動きを手放しで賛美して良いものでしょうか?急繕いで病床を増やしたところで、そのまま放置するならば、膨らんだ経費や人員が必ず問題になります。かといって、縮小すれば、また何らかの感染症が急に拡大した時、結局同じような事態に巻き込まれることになります。

 一方立てれば他方立たず、行くも地獄帰るも地獄なのがこの社会です。そして問題は、考えもしなかったようなところから、続けざまに現れます。何かを改良したつもりが、別の悪い結果をもたらすことも、珍しくありません。何か問題が生じると、つつきたくなるのが性なのでしょうが、誰の迷惑にもならないような手を打つことは、はそう簡単なことではないのです。それでも、この社会にはびこるあらゆる課題に対して、誰かが手を打たなければなりません。問題を洗い出し、解決策を導くことがいかに難しいかというのは、全く想像を絶するような話です。その難しさに目を向け、どのように対処すべきかを考えることは、どうしても必要ではないかと思います。

 原発廃止に向かわなければならないのは、事故が起きる可能性が無視できないからです。日本に住む我々は、3.11の後、福島のあの惨禍を目にしました。あれは未曽有の大災害の後、手が付けられなくなって起きた事故であり、きわめて特殊な状況下で起きた事故であるといえますが、世界に目を向ければ、人為的ミスによって起きた原発事故もあります。原発が存在する限り、放射性物質が広域にまき散らされ、人々の営みを破壊する可能性は残ります、ゆえに、廃止に向かわなければならないというのは、誰もが理解できることでしょう。

 その一方で、現実に廃止が進まないのは、発電コストの問題や、原発交付金に依存せざるを得ない地域の財政の問題などさまざまな要因が考えられますが、ここでは原発を廃止してしまった際の発電様式を問題としたいと思います。

 我が国の発電は、すでにほとんどの部分が火力発電(石炭・石油)に依存しており、火力発電を行えば大気中に二酸化炭素(CO₂)が放出されることになります。これが地球温暖化の要因になることも、また理解されるべきことです。原発廃止を急いだ結果、火力発電の割合が増え、二酸化炭素が大量に放出されるのならば、地球温暖化の災厄は地球全体に及ぶことになります。原発廃止は我が国にとっての重要な課題ですが、それによって別の課題を悪化させることもまた事実なのです。

 廃止してもしなくても、我々は何らかのリスクにさらされることになります。現実はかくも無情なのですが、この現実を前にした我が国民の反応は、全く情けないものであると言わざるを得ません。

 まず、「廃止しなければ原発事故の脅威、廃止すれば地球温暖化の脅威」という二律背反の部分が、正しく理解されてなどいないことを指摘します。地球温暖化の「温暖」という部分につられてか、「雪が減り、冬も暖かくなる」と勝手な解釈を行い、地球温暖化の現状を擁護する人たちがいます。これは、地球温暖化という現象の一面のみを都合よく解釈したにすぎません。実際には、気温の上昇によって多量の水蒸気が流れ込みやすくなることにより、雨のみならず雪さえも短期間に集中して降りやすくなると考えられていますし、気候が変わることそれ自体も、地球全体に影響を及ぼすのです。地球温暖化の脅威を歪めて理解すれば、このような多様な側面に目が行かなくなります。

 それから、「地球温暖化はウソ」という懐疑論者の思考も気になります。原発との関連でいえば、「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」と考える人もいるのです。また、「温暖化」という部分を否定するために、「もうすぐ氷河期がやってくる」と発言する人もいます。今のところあまりにも根拠に乏しい妄想と断ぜざるを得ないのですが、実際には多くの人が、根拠をもとに事態を推し量ることを全く放棄したうえで信じています。「地球が温暖化している」という前提を共有できないため、いくら我々がその脅威を説いたところで、認識を改めてはもらえないでしょう。

 なぜ彼らは、多面的な観点から地球温暖化という現象を理解することを放棄し、自らの妄想に浸ろうとするのでしょう?それは、現実があまりにも無情であるがゆえのことではないでしょうか?現実を直視できないために、自らが勝手に作り出した的外れな理論によって思考をコントロールできてしまうのです。妄想も甚だしくなれば、本気でそのように信じ込み、周りの人間にも影響を与えるようになります。「廃止しなければ原発事故の脅威、廃止すれば地球温暖化の脅威」というジレンマについて語りたいのに、前提がこれでは議論になりません。

 ここまで甚だしくはなかったとしても、原発の脅威に目を向ける際に、地球温暖化という観点に注目されることは不当に少ないような気がします。「原発vs地球温暖化」という構図があまりにも理不尽であることから、目を背けようという趨勢があるのではないかと感じさせられるほどです。

 「原発vs地球温暖化」の難題について私見を述べるならば、原発廃止はやはり必要であり、長期的に成し遂げなければならないと思ってはいます。しかし、直ちに行ってしまえば火力発電を増大させることになるため、急いではならないとも思っています。これではあまりにも日和見で、原発擁護派の手先ではないかと言われそうなのですが、これが私なりに双方に目を向けた結果であり、一方を無視するよりは絶対に優れていると主張したいところです。

 私が今住んでいる島根県松江市では、市内に島根原発が立地していることから、原発について考えることは、身近な課題です。松江市は全域が原発の30km圏内にあり、3.11における福島第一原発と同じ規模の事故が起きた場合、私は家も学校も、4年間の思い出をも失うことになります。しかし、これだけのものを抵当に入れてまで、私は地球温暖化の脅威から目をそらしたくないのです。

 この決意を聞けば、「たった4年間か」と口に出す人がいるでしょう。その人は、私が島根県出身でなく、たった4年間しか松江で暮らしていないという事実をことさらに軽視しているのです。私がこの4年間、松江でいかに多くのものを得てきたことか。生まれてからずっとであれ、50年であれ80年であれ、引き合いに出して私の4年間を軽いものとして見なしてもらっては困ります。新たな「ふるさと」と言うべき松江を原発事故によって失うことを、私は決して許しません。それでも原発事故が起きてしまったとき、私は慟哭し、怒り狂うことでしょう。即時廃止を求めないということは、それだけ自分勝手な態度なのです。しかし、それが私の信条です。ひとたび事故が起これば途端にねじくれる信条です。

 3.11の後、それ以前から原発廃止を求めていた層は、自らに正当性があるという自信を得ることになりました。彼らから見れば、原発廃止を求めない私のような人間は、筋が通っていないように見えるのでしょう。そして、3.11の後、我が後に従うことを強く求め、従わない人間を敵と見なしてもきました。

 しかし、地球温暖化を防ぎ、安全に原発を廃止するための提案は、十分になされてきませんでした。直近のCOP26をもってしてもなお、地球温暖化への対策は十分ではないと言われます。原発廃止を標榜しておきながら、なぜ誰もが納得する形で原発廃止に向かう機運が高まらないのか?つ地球温暖化にも向き合いたいと考える私のような人間ばかりが悪いのか?

 ――そもそも、両方を納得のいく水準で成し遂げること自体、無理なのでしょう。日本は、「2050年までに二酸化炭素の排出量を実質ゼロにする(カーボンニュートラル)」という目標を掲げましたが、残り29年で達成する見通しは立っていません。

 ならば、諦めて二酸化炭素を排出してしまえば良いのでしょうか?私は、その考え方には絶対に染まりたくないと思っています。二酸化炭素の排出量に全く無頓着になって良いのであれば、原発全廃などたやすいことです。しかし、それは、地球温暖化という課題に目をつぶるということを意味します。

 日本は、再び「化石賞」なる不名誉な賞を取ってしまいました。これに対する国内の反応はさまざまですが、主に「化石賞など知ったことか」という層と、「化石賞を取ってしまうほど悪化した日本の現状は自民党政権のせいだ」という層に分かれます。前者は地球温暖化を無視していますし、後者は政権交代を果たせば環境問題も解決すると思っているのでしょうが、どちらの層からも解決への展望は見えません。原発問題と地球温暖化問題の双方に目を向けてこそ、双方の非が見えてくるのです。

 誰もが納得のいく形で原発廃止を迎えるためには、「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」などという妄想を捨てなければなりません。なぜなら、地球温暖化の脅威をわきまえない層は、好き勝手に電気やエネルギーを平気で消費するからです。彼らが認識を改めない限り、地球温暖化を止めることはできないでしょう。誰もが地球温暖化に関心を持ったところで、もう手遅れなのかもしれませんが、それでも開き直って電気やエネルギーを浪費するような人間にはなりたくないものです。

 現実はとても残酷であり、目を向けるには勇気がいります。そして、その現実から目を背け、妄想に浸ることは、一種の逃避です。逃げることなく現実に目を向け、対処していく気概を持つ人が多く現れることを望んでやみません。

 

 …と、ここまで「原発」と「地球温暖化」を題材に、長々と書き連ねてきたのですが、本題である防災については、どのような認識が求められるでしょうか?

 防災の道も、非常に険しい道です。犠牲が出なければ変われないという現状は醜く、何とかしたいと思うことでしょうが、どうすれば後悔が生じないかはわかりません。そもそも、「災害」とは何でしょう?地震や豪雨はもちろんのこと、竜巻のような日本では珍しいものも災害に含まれます。小笠原諸島福徳岡ノ場で起きた火山噴火によって、沖縄の北大東島などに軽石が漂着して被害が出ているのも、災害に含んでよいでしょう。隕石が地上に落ちて被害が出たという話はあまり聞きませんが、仮に地上に落ちて多くの犠牲者を出したならば、れっきとした災害として扱われることになるでしょう。

 それらを俯瞰して見ると、やはり先に被害が出て、その後で対策が取られているのです。何とか先回りして対策を打てないものかと思うのですが、はるか遠くの火山が噴火してその軽石が漂着したことによって漁船を動かすのに支障が出るなどということは、事前に予見できるものではありません。この件では人命までは奪われないでしょうが、人命が奪われうる災害についても、なお対策が行き届いているとは言えません。

 そしてその対策とは、被害をゼロにできるものではありません。遠くの海から押し寄せてくる軽石を防ぐことは現実的ではないことからも明らかでしょう。また、首都直下地震のような直下型地震が都市部で起きた場合、人が密集している場所では「群衆なだれ」が起こり、さらに上からは落下物が直撃します。これは絶対に避けられないものであり、可能な限りの対策をしたとしても、首都直下地震のような災害で犠牲者をゼロにはできないのです。

 しかし、それでも行われるべき対策を放棄するわけにはいかないでしょう。災害の後、「行政の手落ち」が指摘され、槍玉に挙げられるのですが、私にできることはないものかと思って、それらの災害について考えるようにしています。たとえば急に地震が起きた時、群衆なだれが起きることを防ぐためには、慌てないことが肝心であり、そのことを知っておけば、慌てて行動しようとする自らを戒めることができます。また、「落ち着いてください!」とでも言うことができれば、自らや周りのリスクを下げることができるでしょう。災害に対して手を尽くすべきは、行政だけではないのです。少なくとも、「行政の手落ち」をあげつらうだけの人間にはなりたくないので、自分なりに勉強しているのです。

 ここで気になるのは、今まさに進行しつつある「地球温暖化」は、災害のうちに入るかということです。地震津波といった災害は、最も急に起こるものであり、適切に行動しなければ、直ちに命に関わります。続いて、豪雨や台風といった災害は、事前にある程度予想ができ、一挙一動が生死を分けるほどではないのですが、しかし場合によってはそのような状況も考えられます。

 では、少なく見積もっても数十年という時間軸で進んでおり、今後も予想される地球温暖化は、きわめてゆっくりと進む「災害」のようなものに分類できるのではないでしょうか?たった1年過ぎたところで、1年前との変化を実感できないほどゆっくりとした変化ではあるのですが、着実にこの地球の温度は上がりつつあります。刻一刻と状況を変える地震津波といった災害には手を打つのに、影響が感覚的に理解できないからという理由で、地球温暖化の脅威を軽んじてよいのでしょうか?

 スパンの違いこそあれ、地震津波に対処するのも、地球温暖化に対処するのも、根は同じように思えます。我々の生活に影響を及ぼすあらゆる現象に対して、できる限りの手を打ちたいのです。もとより無理なことに取り組む必要はありませんが、落ち度があったと後から振り返った時、「後悔」が生じるのです。私は、その後悔をできる限り減らしたいのです。

 このように書くと、まるで姿の見えない外敵が、一方的に我々の暮らしを脅かしているように見えてしまうのですが、そうとも言い切れません。地球温暖化が進んでいるのは、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスの濃度の上昇のためであると考えられていますが、それらを排出しているのは、ほかならぬ人類です。地球温暖化によって、豪雨や台風は激甚化するとされます。人の営みによって地震津波が激甚化しているという根拠はありませんが、適切な対策を取らなければ、これらの被害は大きくなります。人類が対策を取ることを拒んだために被害が大きくなるというのは、やはり人類自身が招いた結果なのです。

 そして、後悔を減らし、被害を減らすための営みが、防災です。全く被害をなくせるわけではないものの、できる限りのことをしようとすることは、無駄ではないと信じたいものです。

 災害を防ぎ、被害を減らすためには、まず我々の社会にどのようなリスクが潜んでいるかを見極めなければなりません。「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」などと断じ、いたずらに現実から目を背けているようでは、真なるリスクは見えてこず、対策をすることができません。そしてその間にも、災害は迫ってきます。放っておけば、被害が出ることを止められないでしょう。

 先に示したように、災害を防ぐために対策をするのは、簡単なことではありません。正しいと思ったことをしたとしても、うまくいくどころか、むしろ悪化してしまうことさえあるかもしれません。それでも、目を背けるわけにはいかないのです。

 原発を廃止するかしないのかという議論は、路線の違いから生じます。安全を追求するために何が必要かを考えた時、ある人は原発の廃止は絶対に必要であると断じ、またある人は原発を存置したうえで安全に務めるべきであると断じます。両者は、それぞれ異なる部分に着目して論を展開しているのですが、往々にして平行線を辿ってしまうため、放っておけば闘争になってしまいます。(そもそも、完全な答えなど存在しないのでしょう)

 しかし、対立ばかりしていては、何もなすことができないままです。そのため、この社会では、対立を残したまま、各人ができることをするのです。

 その過程では、互いに批判し合い、憎しみ合うこともあるでしょう。それでも、現実を良くするために、動こうとしているのです。現実から目を背ければ、そのようなこともなくなります。都合の悪いことを人のせいにしたとしても、この社会で生きていくためには支障がないのですが、それで本当にこの環境を守り抜けるでしょうか?

 私には私なりの立場があり、相容れないこともあるのですが、それでも、私は私にできることに取り組みます。そして、さまざまな思想に触れ、理解を深めることによって、「私にできること」は増えていくと思っています。周囲の期待に応えられるほどの人材になれるとは思っていませんが、私の存在が社会にとってプラスになることを夢見ています。

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 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。私がこのブログに投稿できる記事は、これで最後になります。私は「rerayブログ」に今回を含めて13本の記事を投稿してきました。これら13本の記事に一貫している部分もあれば、回を重ねるうちに変化した部分もあると思います。(複数本の記事を読み比べてみると、私の思想がより多面的・重層的に見えることでしょうが、数千文字~1万字超の長さの記事を毎回のように投稿しているので、そう簡単には読めないでしょう)なにしろ2年弱ものの間、定期的に記事を書き続けたわけですから、同じではいられないわけです。

 この2年弱のうちに、世の中はずいぶんと変わりました。私自身に起きた変化は、世の中の変化に影響されたものなのか、自ら変化したものなのか、正直よくわかりません。このブログに過程を示せるのはここまでですが、私自身はこれからも変わり続けるものと思います。またどこかでお会いすることがあれば、新たな私の姿を示せるはずです。

 その時まで、じっくりと力を蓄えたいと思います。