【第99回】outputの重要性を考える

99回目となるrerayblog、担当は田村です。

 

お知らせ

2019年11月から始めたrerayblogですが、今回の第99回をもって終了とさせていただきます。

理由としては、

・運営の私の負担増加

・このまま続けていってもその先に何があるのかが見えない

・持続する仕組みが作れそうもなかった

・執筆メンバーの多くが22卒

・キリが良かった

ということが挙げられます。前3つは私の実力不足によるところが大きいです。

たくさんの方にご愛読いただきましたことをお礼申し上げます。

 

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今回はoutputの重要性を書こうと思う。

(なんともrerayblogの最終回にふさわしい題材を選んだなと自画自賛

 

inputばかりして何かを”やっている気になっている”大学生は多いように思う。
(かく言う私もそうでした)

inputはoutputをしてこそ意味があるのであり、outputありきでないinputは意味がない。ひたすらにinputをしていたからといってoutputが起こるわけではない。大量にinputした情報は次から次へ入ってきた情報に押されて忘れていくだけだ。人間の記憶というのはもろいもので、簡単に忘れていく。
(本当かと思う人は「忘却曲線」というものを調べてみてください)

 

outputはどんなやり方でしても構わない。outputは表現だ。
その方法は多岐にわたる。人に話すでもいいし、文章を書いてもいいし、絵を描いてもいい。音楽を作るのもそうかもしれないし、体を動かすのがそうだという人もいるだろう。

私は文章を書いたり、人に話すことでoutputをしていることが多い。

 

outputすることの良さはいくつもあるが、私が実感しているところは、

・人がアイデアをくれる

・自分の思っていたことが言語化or視覚化され、整理できる

・視覚化されるので半永久的に残り続ける

・決意表明となり、ある種の強制力が働くのでだらけない

この辺りだろうか。

 

ここまでは私がinputとoutputを繰り返していく中で見えてきたことを書いた。

ここからは受け売りだが、人が言っていたことをいくつか紹介する。

 

キングコング西野さんが言っていたのだが、

毎日「配信する」(アウトプットする)ということが決まっていれば、「ネタ」を探して生きるようになるので、吸収率が上がる

これは私も実感するところだ。

noteをやっていたり、ブログをやっていたり、定期的にFacebookで長文を書いたり、日記をつけたり、outputの場は多く持っているので、そのネタとなりうるものに対して敏感になってくる。それによりinputの質もあがるのだ。

 

樺沢紫苑さんの『学びを結果に変えるアウトプット大全』には

インプット:アウトプット=3:7

と書いてあった。皆さんはinputの二倍以上outputしているだろうか?

正直私もできているか怪しい時期はあった(というかずっとそうだ)

最近はそもそもinputの時間が少なくなっているのでこれくらいの割合かもしれない。

 

 

人々がoutputの機会をあまり持てていないのではないかという課題感もあり、rerayblogを始めたのである。(詳しくはこちら

 

 

----おまけ-----

そもそものinputやoutputとは何か?という定義をしていない。そのあたりはなんとなくのニュアンスで理解してほしいが、

inputに関して、"intake"という概念を紹介したい

blog.kyouikujissen-ofcf.jp

 

このブログではinputとintakeを下記のように定義していた

  • 他者が構成した知識や情報が既に用意され、それをそのまま受け取り、覚えることをインプット
  • 課題解決の必要や興味などを起点に、自ら知識を取り込み、理解しようとすることをインテイク

私がこのブログ内で書いていたinputはどちらかというとintakeに近かったと思う。

【第98回】学びとは、学び舎とは。~異端を歩み続けた17歳の探究報告~

今週のリレーブログは、島根県益田市通信制高校3年生、伊藤が担当します。

色々と忙しい中、このブログを仕上げるのはなかなか大変ではありましたが、今回で終わり。初のブログ執筆でもあった本コーナーに関わらせていただき早3回目。慣れてきたところだっただけに実はかなり寂しい気持ちでおります。

 

そんななか、私がずっとテーマにしてきた教育という分野についてアイデアが浮かんできたので、思い切って記事にしてみました。

 

色々な想いが積もりすぎてかなり長くなってしまうと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

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学び、あるいは学習。

この言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか。

 

学校でのお勉強か、ありふれて感じる日々の暮らしか。

貴重だと感じたり、面倒だと感じたり、面白かったり苦しかったり。

 

恐らく人によってさまざまでしょう。

それは、立場によってもしかり。

 

教える側からすれば、本質を理解してもらいたい。

受験の指導なら、とにかく合格してもらいたい。

学ぶ側からすれば、上述のように様々。

 

とにかく様々です。

 

ただ私にはどうにも思うところがありますので、こうして文章化してみることとしました。

しかし私は、教育学を修めたわけでも、たいした学をもっているわけでも、まして成人すらしていません。

ただ唯一、異端から社会をみつめ、多くの方々にたくさん救っていただいてきただけの若造です。

それでも、そんな若造の感じたことが気になる!と思っていただけるなら、私史上最長の長~いおはなしですが、お付き合いいただけると幸いです。

 

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私にとって、学校のお勉強とは面白くも理解しがたい存在でした。

 

新しい視点が得られる一方、どうにも答えに決まりきった縛りが見え隠れするような、なんとも閉塞的で一方的な雰囲気があって、どうにも腹落ちしない不思議な感情を抱いていたからです。

 

ところが、そんなお勉強にもどこか意味があるはず。

その矛盾を補って余りある、利益があるから制度として存在するはず。

では一体、それは何か。

 

そう、小学4年のころからずっと考えてきました。

その結果が出つつあった昨年冬、私が考えていたのは、学校というものをなくしたらどうなるか。ということ。

とても実際にやることは不可能なので、思考実験を繰り返しました。

 

結果、学びたくとも学べない子供が多数生まれ、識字率など基礎的なところがまずダウン。

一般教養に含まれる共通認識が崩壊し現代社会を構成するピースが欠けることで、社会全体の効率低下や規模縮小が発生。

集合体の離散が重なり、現代社会の構造は崩壊へと向かうのではないか。そういう結論に達しました。

 

よって、学校とは現代社会に必要不可欠な存在であり、必要不可欠だからこそ作られ、また存在することを前提、基礎として、現代社会が成立している。

これにより、矛盾だらけに見える学修スタイルも、その実可能な限りの力を尽くして最適化された末のものであると理解できます。

 

ところが、実際目を向けてみると、現場では様々な問題が噴出しているのもまた事実。

実際私の身近にも、課題に意味がないと感じたり、量的、質的に実勢とマッチしていないと感じる人も多数存在します。

またそもそも学校という制度に収まることができなかった私のような存在もいて、周囲の価値観や常識との相違に追いつめられるような境遇のこどもも、かなりの数いることでしょう。

 

では、それはなぜ起きてしまうのか。どうすればいいのか。私なりにこの1年、考え続けてきました。

 

すると見えてきたことがいくつかあります。

 

まず、学びが変質してしまっているのではないか、ということ。

 

その最たる例が受験勉強の、とりわけ年号の暗記でしょう。東進衛星予備校長だった祖父と話してみると、受験勉強をすることに意味はあっても、年号の暗記などにはほとんど意味がなく、学びとはいえないとのこと。

実際、この問題は他方でもさまざまな機会で槍玉にあげられ、議論がされてきました。

 

ではなぜ、様々な機会でそのことが槍玉に挙げられるのか。

私なりにもその課題を考えてみましたが、確かにその通りと腑に落ちます。

なぜなら、年号を暗記したところでそれは単に時計の針が作るデータに過ぎませんから、その背景を理解しようとせねば情報、ここでは教養として機能しませんから。

 

よって、本来の目的であろう私たち現代人に必要な教訓や教養を修得するという目標からはあまりにも乖離しているのです。

 

そして本来、学びとは生活に活きてこそ。

或いは生活に活きている実感がそのときなくとも、将来役に立つ、なんてこともしばしばですが。

ともかく、そのために勉強をする、そうでなくとも最低限はさせるという行為自体は、素晴らしく、また正当なものでしょう。

 

ただ、すると大事になってくるのは、いかに学ぶか、なぜ学ぶか。

 

例えば、私はこれまで宿題という宿題をほぼやらずに過ごしてきました。それはその行為に全く価値を感じなかったからです。

後々になって、漢字や英語についてはしておくべきだったと後悔していますが、それもそれ。

 

学びたいと感じたからこそ、今私は漢字やその部首を自ら覚え直していますし、英語にも悪戦苦闘しながらですが、その時したいことをして積んだ経験の分だけは効率的に取り組んでいます。

 

そこからさらに、学ぶ必要性や楽しさを見出すことができるか。

 

またもうひとつ例を出すと、私は学校のテストや課題というものにほとんど価値を感じたことはありません。

ただ、点数と単位、資格が欲しいからやっているだけです。そうでなければ、全てボイコットします。

 

しかしそうであるならば、わざわざ高いお金を払ってまで学校へ入るというのは、果たして意味があることでしょうか。人生の時間のうち12年間も割いてきて、そのうえ学び続けることは本当に必要なことでしょうか。

ひいては、高卒資格や大卒資格などというもの(レッテル)には価値がないのではないか、そんな疑問さえ浮かんできます。

 

しかし。我々の生きる社会において、かなりの割合で学歴というものがものを言い、人を見る尺度として利用され続けている実態に鑑みれば、とりあえずそこに合わせて学歴を付けておくということは大切なことです。

 

ただ、私には空虚な自己啓発に感じて、苦手意識を禁じえません。

 

では私はなぜ空虚なものと感じてしまうかというと、学校で言われる点数や単位というのは、生徒あるいは学生がきちんと学習しているかを見える化するために、一方向からの尺度で疑似的にデータ化したゲームにすぎないと考えるからです。

もっと言えば、学問に正解を設けるということ自体すでにナンセンスなことですし、教師といえ人は人に甲乙つける資格を本来有していないと私は考えていることもあり、それはそれは大変空虚に感じてしまいます。

 

ならば同様に資格も、その人間を表しているというより、その人間に与えられた学ぶ機会を(実態はともかく)証明しているに過ぎない、となりますよね。

 

そのことに気づいた今年の夏以降、私は先生方に(志塾フリースクールの先生方のことを心からお慕いしているからこそですが)、連携している所属校から出されるわかりにく~い課題の改善をほとんど求めなくなりました。

世間話程度に周囲の生徒のいうそれに乗っかることはあるにせよ、自分からは言いません。

 

なぜなら、課題やテストというのは先述の通りのもので、そこから見えるのは氷山の一角。学修すべきものはレポートにもテストにもなく、教科書に、実学に、先生方の姿に、詰まっているのですから。

 

では、そんな作業と化してしまいがちなものを道具として生かし身のある学修とし、去りし時代を懸命に生きた人々の本質に寄り添い、彼らの残した知見や功績を我が身の糧とするにはどうすればよいか。

それには恐らく、試験のため、課題のためで終わらせず自らの意思で教科書を読み、猛烈な探究意思をもって全身全霊でかみ砕かなければならないのではないか。

 

そう気づいたからこそ、私は深い悔恨の念を抱いたものです。

どうして、レポートの薄っぺらさから脱却できなかったか。どうして宿題にこだわったか。

教科書に全てあったのに、読むだけで覚える頭はあるのに、考える価値観も経験も積んできて、興味を持って動くこともできるのに。

どうして、それに気づかなかったか。

 

その瞬間、教科書から答えを探す勉強から、先ほど言った教科書をかみ砕く勉強、つまり探究的、実学的学修へと、一気にシフト。結果成績も、学習時間が大幅に短縮したにもかかわらず爆発的に伸ばすことができましたし、その要領で受験に臨み、支えてくださった方々とともに大学合格も勝ち取りました。

 

そして今。私は新たな課題に取り組んでいます。それは、どうすればこの本質的な学びを広めることができるか。

どうすれば、教科書に詰まっている学修のタネをより多く活かすことができるか。

賢者は歴史にも学び 愚者は経験にのみ学ぶ。そういう言葉もありますから、本来のまなびならば、みんな今の10倍や20倍は学びを活かせるだろうに。とも思っています。

 

ただ、ここで忘れてはならないのが、学修に取り組むかどうかは、あくまで各々にゆだねられるものである、ということ。本来学びとは必要だからするもので、させられるものでないと言いましたが、まさにこの場合何らかの強制力が働いた時点で本質的学修たりえません。つまり、せっかくの機会を生かすも殺すも全ては学習者次第となってしまう、ということです。

 

これには、私自身課題感を持ってこどもたちと接するなかで大いに苦心しているところです。

 

しかし、冒頭に述べたような教育には、その強制力がふんだんに働いています。

結局、私の感じ続けてきた違和感とは、この強制力からくる学びの変質にあったのでしょう。

 

さて。ここでようやく、1つの大きな疑問のまとまり、「学びとは?」に、おおよその片が付いたと思います。

 

 

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ではせっかくですから、続いて学校とは?という問いにも向き合ってみましょう。

とはいうものの、私は教育学を修めたわけでも、教師を務めたわけでもありません。まして、成人すらしていません。

ただ、異端として孤高になりたいと生きた17年で感じたことから、述べていきたいと思います。

 

学校とは。みなさんにとって、学校とはどんなところですか。

先の学び同様、さまざまな感想がでてくると思います。

 

本稿冒頭にて、私は学校について、

現代社会において必要不可欠な場所」と書きました。

 

そしてこれはきっと、間違いのないことだろうと思っています。

 

しかし。本当にそうでしょうか。

正確に言えば、全員にとって本当にそうでしょうか。

 

学びは必要です。ただ、学校であることは必ずしも重要でしょうか。

 

私としては、学校とは本来行きたくて行く場所。或いは、本来ならば知性のデパート。

ところが実情は、社会に利用されている通過儀礼的場所、或いは何らかの強制力が働いて、システムに組み込まれる場所、というイメージです。

 

ただそのシステムも、自分は嫌いではありません。システムに逆らいさえしなければ面白いし、発見や多様性に満ち溢れた空間だと思います。

ただ少しだけ、私にはなじまなかっただけで。

 

先生方にもすごくよくしていただけたことからも、嫌いでない、というより好きな場所、というべきでしょう。

 

しかしそれならばなおさら、なじめなかったことが悔しくてなりません。よくしていただけても、気にかけていただけても、なじめなかったのですから。

 

ただ、そんな学校にも、ひとつだけ個人的に嫌いだなと思う側面があります。

いや、学校というより、社会の価値観というべきでしょうか。

 

学校が正しい、学校に行くことが素晴らしいこと、学校に行っていい成績をとるのが喜ばしい、などなど。

 

決して間違いではありません。決して、悪い考えとも言い切れません。

ただ、学校を動かすのも人間ですから、正しいとは言い切れません。先生のなかでも、大丈夫か?と思うような方も一定数おられますし。

それに、素晴らしいのは本来、学校に行くことではなく、望んで学校に行けることではないでしょうか。喜ばしいのは、いい成績をとれるということより、本気で楽しんで学べることではないでしょうか。

 

私の考え、違いますか。

 

もし間違っていないなら、一体いつから、その“些細な”言葉にすればたった1文字か2文字の勘違いは生まれたのでしょうか。

その“些細”なことで、どうして子供が苦しむのでしょうか。どうして、命を絶つまで思いつめるのでしょうか。

 

少しだけ、考えてみてください。

 

とはいえ。学べることは素晴らしいことです。学ぶ機会がないこどももたくさんいます。実際、日本でも数十年前まで、中学校ですらろくに学ばせてもらえないこどもがたくさんいました。

 

だからと言って学校は全面的に正しいのでしょうか。

学校に行くことが本当に素晴らしく、学校に行かないことが悪く、行けないことが悲しいことなのでしょうか。

 

例えば、自分に親しい友達がいないと仮定しましょう。

するとそれを心配する人はいても、怒ったり悪いことだと咎める人はそうそういないでしょう。

しいて言うなら、心配するあまり・・・ということはあるかもしれませんが、大きな筋違いであることはみなさん思われることと思います。

 

しかし、学校の場合そうではありません。行けないと社会的に破滅するかのように思わされます。

友達を作れるのも、学校に行けるのも、おなじく技術やパワーのいることで、どちらも尊いことです。

ではなぜ、こうも違うのでしょうか。

どうにも、腑に落ちません。

 

私が思うに、本当の学びというのは心や社会のゆとりあってこそ花開く文化です。そのゆとりとは、なにより自由な選択権を基礎とします。

 

とすると本当の学びというのは、選択権なく通過儀礼のように進学する現在の教育には、およそ成しえないことと感じてしまいます。

もちろん、先述のように個人次第でしょうし、生きていくうえで常識とされる社会一般の教養は必要不可欠な手段だと思います。

 

ただそれについても、まなびたい!と思う志なくして、まして学校に行くことが正しい、などという価値観で縛られたうえで修めるものでは決してないと、私は考えるわけです。

 

そんなとき、私たちは何を必要としているか。とりわけ、少数派の児童、生徒が何を本当に必要としているか。

 

決して、抑圧され画一的な教育ではありません。

発想を広く持った、掘り起こし共に育つ、共育です。

 

しかしその少数派と多数派を画一してしまえば、それはまったく本来の自由な選択権があるとは言えないとも思います。

 

つまるところ学校というのは、社会の中で存在があまりに大きいがために、ある種の信仰状態が生まれてしまっている。

そうとも言えるのではないでしょうか。

 

学校は知性のデパートである。そう私は先ほど述べました。それは、日常からその延長まで、たいていのものはそろい、たいていのことは効率よく手にできるからです。

それに、学校という存在があるとないとではその街の発展が大きく違います。というか、それがあるかないかで街の体力におおよその見当がつくほど、大きい存在、とどのつまりデパートなのです。

 

しかし、デパートを信仰する人はいません。

デパートがある意義の根幹は、購買行動における選択の自由が広がることにありますから、信仰対象たりえないというわけです。

 

というわけで。ずいぶん遠回りした話になったので、たいていの方は私の言わんとすることに想像がつくかと思いますが。

 

結局、学校とは人生を高めていく選択肢の1つに、本来ならば過ぎないのではないか?ということです。

 

そして、その街に学校という名のデパートがある意義が、人生の選択肢を広げることにあるのなら。選択肢を学校ひとつに限定するような価値観は、学校そのものの存在すら間接的に否定することになっているのではないか。

逆に、経済的にも立地的にも、境遇的にもなんのバリアもなく様々な学び方を利用できる体制、価値観、社会をつくることこそ、新しい教育にふさわしいのではないか。

そう、考えます。

そしてこれこそ、信仰じみた教育ではなく、本当に必要とされている、デパート的教育ではないでしょうか。

 

本当に大切なのは学校ではなく、まなび高めることのできる環境にあるこどもたちなのですから。

 

そこで私は、全ての学校の屋上に低額で気軽に使えるフリースクールを作ってしまえばいいとも考えています。

暴論かもしれませんが、このくらいでないと、多様な社会には対応しづらいでしょう。

 

そして幸い私は、学校の中でもそれに限りなく近い指導をしていただくことができ、家でも家にこだわらない教育として、地域の方に幼いころから一人前に扱っていただいてきました。

不登校になり、結果として色々な価値観に中てられることもありましたが、それでも3年前にはフリースクールに出会うことができ、本当の意味で自己実現をさせてもらえています。

 

これこそ、経験と学びのデパート、本当の教育ではないでしょうか。

 

 

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学校とは。学びとは。人生とは。

これはどこまでも、答えのない問いです。ただ、志さえあれば、状況と利用可能な資源の中で、うまく組み替えて最適化していくことは十分可能です。

 

逆に言えば、答えがない以上は最適でない状態で常に維持されているわけですから、最適に近づけるため、思考、実行、改善の停滞は決して許されません。

 

だからこそ、未熟な私なりの見解ですがこうしてまとめてみました。

 

これを読んでくださったみなさまには、ぜひ自分なりの見解と照らして、今一度考えてみていただければと思います。

 

6800文字を超える長文にもかかわらず、小僧の長話におつきあいくださり、ありがとうございました。

私の言葉たちが、どなたかの心にすこしでも届いたなら、幸いです。

【第97回】ことば

 

どうも、古賀です。

このrerayブログも残すところ今回を含めて計四回となりました。

 

私は第十回から参加していたのですがなんだかんだで最終回を迎える前まで執筆することができました。

そこで本編に移る前にこれまでに書いたブログを一言コメント添えながらちょっと振り返っていこうと思います。

 

【第10回】果てなき冒険魂! - rerayブログ

初投稿のやつです。自分の特撮オタぶりが存分に込められています。比較的まともなこと書いています。

 

【第20回】このブログを読むときは聞き手の逆のほうでスマホをスクロールしてください - rerayブログ

オチを先に考えて中身をつけていったブログです。個人的に一番好きな記事で伏線がうまくいったな~と思っています

 

【第29回】知らんけど - rerayブログ

このころから様子がおかしくなってきました、しらんけど

 

【第36回】青眼の亜白龍←読めますか? - rerayブログ

一瞬まともに戻ります。遊戯王は今でも大好きです。

 

【第44回】人狼にジョブチェンジ要素があったら面白そうという話 - rerayブログ

と思ったらこちらも結構まともでした。ただ割と考えずに執筆した覚えがあるので実は結構ルールを念入りに考えればよかったな~って思ったりしています。

 

【I 57-ti】minikui (*ブログの中身よりテーマが先行した) - rerayブログ

や り す ぎ 

 

【第64回】深そうに聞こえて実はそんなでもない言葉集~語尾か語頭に「めゃ」を添えて~ - rerayブログ

目標はNHKの歴史ヒストリー的なものですが、語頭か語尾を違和感だらけにしたらどうなるだろうという記事です。いや題材もよくよく考えたら意味分からんか。

 

【第71回】あ - rerayブログ

本当に面倒くさかったです。ちなみに「あ」だけで言葉を作りたいというブログなのに「お」を使っとるやんけという突っ込みを待っていました。今でも待っています。

 

【第77回】シラスの一本釣り - rerayブログ

the 自由奔放というやつです。とにかく気の赴くまま執筆しました。

 

【第84回】前編がない(後編) - rerayブログ

結構このブログ狂気だと思います。なんか一種のタイムリープみを感じ、、、ないか。

 

【第90回】アドベンチャー系の映画やアニメでよくある、主人公一行が求めている「宇宙一のお宝」の正体が豆腐だった時の対処法と仮にその豆腐が世界を滅ぼすほどの威力を持っていた時に人類はどう立ち向かえばいいのかという話 - rerayブログ

豆腐めっちゃうまいよねって話です。それ以上でも以下でもない。

 

こっから本題でっせ

 

  • ①古賀が「言語化」という言葉が嫌いという話
  • ②意味のない
  • ③言葉で遊ぼう
  • ④とばして
  • ⑤終わりに

 

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【第96回】リスクと向き合う

 こんにちは。島根大学の平田将達です。とうとう、私が更新できる最後の記事になってしまいました。名残惜しいのはもちろんのこと、このブログに書こうと思っていた内容を複数用意していた中から、最後にどれを書こうかと悩むことになりました。その結果、今回の記事が生まれたわけです。

 私がさまざまに行動する根底に何があるのかという一端を、感じていただければ幸いです。

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 「後悔しないように生きる」ことは立派な心掛けですが、なかなかできるものではありません。私など、後悔しないために、できることなら多少無理してでもやり抜こうとする意志を持っているつもりなのですが、それでも後悔が生じることは頻繁です。「後悔などしていない」などと強がりたくもなるのですが、これが現状なのです。

 我々がこの社会で生活する中でも、至る所で後悔は生じます。「すべきことをしていなかった」ことが後から発覚したために、後悔が生じるのですが、これをなくすことは不可能かもしれません。Aのために手立てを講じた結果、相反するBに害が及ぶ……ということは日常茶飯事です。この世の中は、万人を幸せにはしてくれないようです。

 

 その理不尽さは、防災という分野に現れていると思います。「防災」「減災」を標榜するからには、起こりうる災害を食い止め、被害を減らさなければなりません。それができなかったとき、誰かの命や財産が脅かされるという結果を招き、後悔が生じることになります。

 何といっても日本は地震大国であり、国内のどこであっても地震のリスクからは逃れられません。また、1年のうちには必ず台風が日本のどこかを通過しますし、火山の噴火や大雪が思わぬ被害をもたらすこともあります。このことは、日本人ならば誰もが知っているはずであり、万全な対策というものが打てるはずなのですが、なぜか時には大きな被害が出てしまいます。

 私など、日本でなくても、どこかで誰かが傷ついたということをニュースで目にした時、悲痛な気持ちになります。日本人が被害に遭わなかったからといって、「よかった」という気持ちが生じることはありません。戦争や事件ならばともかく、災害で傷つく人が少しでも減ってほしいと思っています。

 しかし、さまざまな機関の努力もむなしく、「年々災害が減っている」と感じることはありません。災害を減らしたいと思うのは、少なくとも私だけではなく、おそらく誰もが思っているはずなのですが、なぜ災害は減らないのでしょうか?彼らの努力は無駄なのでしょうか?

 ――無駄でないとするならば、やはりどこかでジレンマに陥っています。誰かの幸せを追求した結果、災害という形で不幸が押し寄せていることが考えられます。もっといえば、防災のための対策でさえ、別の場面で災害につながっているということがあるかもしれません。例えば、積もった雪の重みによって家が倒壊することを防ぐため、積もった雪が地面に落ちるように屋根を急傾斜にした結果、落ちてきた雪によってたまたま建物の下にいた人がケガをし、また雪下ろしのために屋根に上がった人が滑って落下するといったような災害が――。

 このようなケースがあるために、対策はなかなか前に進まないのです。また、予算や労力の制約によって、対策が進まないこともあります。3年前には、大阪府で起きた地震によってブロック塀が倒壊し、小学生の女の子が巻き込まれて亡くなるという事故がありました。

 建物の強度は基準が見直されているというのに、全国各地には古いままのブロック塀が数多く残されています。おそらくブロック塀にまでは注意が向かなかったか、向いていても後回しにされていたのです。全国のブロック塀を全て頑強なものにするということ自体無理難題なのですが、仮に補強できたとして、それで倒壊しないという保証はありませんし、ブロック塀以外のものが凶器となって人を襲う可能性も排除できません。

 それでも、この痛ましい犠牲によって、全国のブロック塀が一斉に点検され、危険なものは処置が行われるという措置は現実に取られました。これでリスクは減ります。しかし、万全になるとは断言できません。また、その処置は、現に犠牲が出てしまったことを機に取られたものなのです。

 「犠牲が出なければ変われない」というのが、この社会の実態です。犠牲が出た時、その犠牲を生じさせない方法はなかったものかという点が批判的に検証され、注目が集まります。しかし、何が問題とされるかを完全に予測することは困難です。それまで正しいとされていたことが、実は失敗の原因として働いていたことが後から判明することもあるからです。

 一般に「災害」とみなされる範疇の外で起きることですが、新型コロナウイルスCOV-19の対応で問題点として、平成以降に行われた病院の規模縮小が問題となり、批判を浴びました。COV-19のような爆発的に拡大する感染症に対応するためには、病床を削減してはいけなかったのです。それでも、病床の縮小が行われたのは、財政や人員の観点から行われた、正当性のあるものでした。しかし、コロナ禍においては、この現状こそが仇となったのです。

 3.11以降、特に廃止の機運が高まっている原発も、火力発電からの脱却のために拡充されてきた発電方式でした。原発といえば危険なものとして認知されていることでしょうが、原発大国フランスでは、二酸化炭素削減を目的として新たな原発の建設が行われることが(大きな批判を受けながら)マクロン大統領から発表されたところです。

 今、病床を拡充し、原発を廃止することばかりに注目が行くようになっていると思われるのですが、果たしてこの動きを手放しで賛美して良いものでしょうか?急繕いで病床を増やしたところで、そのまま放置するならば、膨らんだ経費や人員が必ず問題になります。かといって、縮小すれば、また何らかの感染症が急に拡大した時、結局同じような事態に巻き込まれることになります。

 一方立てれば他方立たず、行くも地獄帰るも地獄なのがこの社会です。そして問題は、考えもしなかったようなところから、続けざまに現れます。何かを改良したつもりが、別の悪い結果をもたらすことも、珍しくありません。何か問題が生じると、つつきたくなるのが性なのでしょうが、誰の迷惑にもならないような手を打つことは、はそう簡単なことではないのです。それでも、この社会にはびこるあらゆる課題に対して、誰かが手を打たなければなりません。問題を洗い出し、解決策を導くことがいかに難しいかというのは、全く想像を絶するような話です。その難しさに目を向け、どのように対処すべきかを考えることは、どうしても必要ではないかと思います。

 原発廃止に向かわなければならないのは、事故が起きる可能性が無視できないからです。日本に住む我々は、3.11の後、福島のあの惨禍を目にしました。あれは未曽有の大災害の後、手が付けられなくなって起きた事故であり、きわめて特殊な状況下で起きた事故であるといえますが、世界に目を向ければ、人為的ミスによって起きた原発事故もあります。原発が存在する限り、放射性物質が広域にまき散らされ、人々の営みを破壊する可能性は残ります、ゆえに、廃止に向かわなければならないというのは、誰もが理解できることでしょう。

 その一方で、現実に廃止が進まないのは、発電コストの問題や、原発交付金に依存せざるを得ない地域の財政の問題などさまざまな要因が考えられますが、ここでは原発を廃止してしまった際の発電様式を問題としたいと思います。

 我が国の発電は、すでにほとんどの部分が火力発電(石炭・石油)に依存しており、火力発電を行えば大気中に二酸化炭素(CO₂)が放出されることになります。これが地球温暖化の要因になることも、また理解されるべきことです。原発廃止を急いだ結果、火力発電の割合が増え、二酸化炭素が大量に放出されるのならば、地球温暖化の災厄は地球全体に及ぶことになります。原発廃止は我が国にとっての重要な課題ですが、それによって別の課題を悪化させることもまた事実なのです。

 廃止してもしなくても、我々は何らかのリスクにさらされることになります。現実はかくも無情なのですが、この現実を前にした我が国民の反応は、全く情けないものであると言わざるを得ません。

 まず、「廃止しなければ原発事故の脅威、廃止すれば地球温暖化の脅威」という二律背反の部分が、正しく理解されてなどいないことを指摘します。地球温暖化の「温暖」という部分につられてか、「雪が減り、冬も暖かくなる」と勝手な解釈を行い、地球温暖化の現状を擁護する人たちがいます。これは、地球温暖化という現象の一面のみを都合よく解釈したにすぎません。実際には、気温の上昇によって多量の水蒸気が流れ込みやすくなることにより、雨のみならず雪さえも短期間に集中して降りやすくなると考えられていますし、気候が変わることそれ自体も、地球全体に影響を及ぼすのです。地球温暖化の脅威を歪めて理解すれば、このような多様な側面に目が行かなくなります。

 それから、「地球温暖化はウソ」という懐疑論者の思考も気になります。原発との関連でいえば、「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」と考える人もいるのです。また、「温暖化」という部分を否定するために、「もうすぐ氷河期がやってくる」と発言する人もいます。今のところあまりにも根拠に乏しい妄想と断ぜざるを得ないのですが、実際には多くの人が、根拠をもとに事態を推し量ることを全く放棄したうえで信じています。「地球が温暖化している」という前提を共有できないため、いくら我々がその脅威を説いたところで、認識を改めてはもらえないでしょう。

 なぜ彼らは、多面的な観点から地球温暖化という現象を理解することを放棄し、自らの妄想に浸ろうとするのでしょう?それは、現実があまりにも無情であるがゆえのことではないでしょうか?現実を直視できないために、自らが勝手に作り出した的外れな理論によって思考をコントロールできてしまうのです。妄想も甚だしくなれば、本気でそのように信じ込み、周りの人間にも影響を与えるようになります。「廃止しなければ原発事故の脅威、廃止すれば地球温暖化の脅威」というジレンマについて語りたいのに、前提がこれでは議論になりません。

 ここまで甚だしくはなかったとしても、原発の脅威に目を向ける際に、地球温暖化という観点に注目されることは不当に少ないような気がします。「原発vs地球温暖化」という構図があまりにも理不尽であることから、目を背けようという趨勢があるのではないかと感じさせられるほどです。

 「原発vs地球温暖化」の難題について私見を述べるならば、原発廃止はやはり必要であり、長期的に成し遂げなければならないと思ってはいます。しかし、直ちに行ってしまえば火力発電を増大させることになるため、急いではならないとも思っています。これではあまりにも日和見で、原発擁護派の手先ではないかと言われそうなのですが、これが私なりに双方に目を向けた結果であり、一方を無視するよりは絶対に優れていると主張したいところです。

 私が今住んでいる島根県松江市では、市内に島根原発が立地していることから、原発について考えることは、身近な課題です。松江市は全域が原発の30km圏内にあり、3.11における福島第一原発と同じ規模の事故が起きた場合、私は家も学校も、4年間の思い出をも失うことになります。しかし、これだけのものを抵当に入れてまで、私は地球温暖化の脅威から目をそらしたくないのです。

 この決意を聞けば、「たった4年間か」と口に出す人がいるでしょう。その人は、私が島根県出身でなく、たった4年間しか松江で暮らしていないという事実をことさらに軽視しているのです。私がこの4年間、松江でいかに多くのものを得てきたことか。生まれてからずっとであれ、50年であれ80年であれ、引き合いに出して私の4年間を軽いものとして見なしてもらっては困ります。新たな「ふるさと」と言うべき松江を原発事故によって失うことを、私は決して許しません。それでも原発事故が起きてしまったとき、私は慟哭し、怒り狂うことでしょう。即時廃止を求めないということは、それだけ自分勝手な態度なのです。しかし、それが私の信条です。ひとたび事故が起これば途端にねじくれる信条です。

 3.11の後、それ以前から原発廃止を求めていた層は、自らに正当性があるという自信を得ることになりました。彼らから見れば、原発廃止を求めない私のような人間は、筋が通っていないように見えるのでしょう。そして、3.11の後、我が後に従うことを強く求め、従わない人間を敵と見なしてもきました。

 しかし、地球温暖化を防ぎ、安全に原発を廃止するための提案は、十分になされてきませんでした。直近のCOP26をもってしてもなお、地球温暖化への対策は十分ではないと言われます。原発廃止を標榜しておきながら、なぜ誰もが納得する形で原発廃止に向かう機運が高まらないのか?つ地球温暖化にも向き合いたいと考える私のような人間ばかりが悪いのか?

 ――そもそも、両方を納得のいく水準で成し遂げること自体、無理なのでしょう。日本は、「2050年までに二酸化炭素の排出量を実質ゼロにする(カーボンニュートラル)」という目標を掲げましたが、残り29年で達成する見通しは立っていません。

 ならば、諦めて二酸化炭素を排出してしまえば良いのでしょうか?私は、その考え方には絶対に染まりたくないと思っています。二酸化炭素の排出量に全く無頓着になって良いのであれば、原発全廃などたやすいことです。しかし、それは、地球温暖化という課題に目をつぶるということを意味します。

 日本は、再び「化石賞」なる不名誉な賞を取ってしまいました。これに対する国内の反応はさまざまですが、主に「化石賞など知ったことか」という層と、「化石賞を取ってしまうほど悪化した日本の現状は自民党政権のせいだ」という層に分かれます。前者は地球温暖化を無視していますし、後者は政権交代を果たせば環境問題も解決すると思っているのでしょうが、どちらの層からも解決への展望は見えません。原発問題と地球温暖化問題の双方に目を向けてこそ、双方の非が見えてくるのです。

 誰もが納得のいく形で原発廃止を迎えるためには、「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」などという妄想を捨てなければなりません。なぜなら、地球温暖化の脅威をわきまえない層は、好き勝手に電気やエネルギーを平気で消費するからです。彼らが認識を改めない限り、地球温暖化を止めることはできないでしょう。誰もが地球温暖化に関心を持ったところで、もう手遅れなのかもしれませんが、それでも開き直って電気やエネルギーを浪費するような人間にはなりたくないものです。

 現実はとても残酷であり、目を向けるには勇気がいります。そして、その現実から目を背け、妄想に浸ることは、一種の逃避です。逃げることなく現実に目を向け、対処していく気概を持つ人が多く現れることを望んでやみません。

 

 …と、ここまで「原発」と「地球温暖化」を題材に、長々と書き連ねてきたのですが、本題である防災については、どのような認識が求められるでしょうか?

 防災の道も、非常に険しい道です。犠牲が出なければ変われないという現状は醜く、何とかしたいと思うことでしょうが、どうすれば後悔が生じないかはわかりません。そもそも、「災害」とは何でしょう?地震や豪雨はもちろんのこと、竜巻のような日本では珍しいものも災害に含まれます。小笠原諸島福徳岡ノ場で起きた火山噴火によって、沖縄の北大東島などに軽石が漂着して被害が出ているのも、災害に含んでよいでしょう。隕石が地上に落ちて被害が出たという話はあまり聞きませんが、仮に地上に落ちて多くの犠牲者を出したならば、れっきとした災害として扱われることになるでしょう。

 それらを俯瞰して見ると、やはり先に被害が出て、その後で対策が取られているのです。何とか先回りして対策を打てないものかと思うのですが、はるか遠くの火山が噴火してその軽石が漂着したことによって漁船を動かすのに支障が出るなどということは、事前に予見できるものではありません。この件では人命までは奪われないでしょうが、人命が奪われうる災害についても、なお対策が行き届いているとは言えません。

 そしてその対策とは、被害をゼロにできるものではありません。遠くの海から押し寄せてくる軽石を防ぐことは現実的ではないことからも明らかでしょう。また、首都直下地震のような直下型地震が都市部で起きた場合、人が密集している場所では「群衆なだれ」が起こり、さらに上からは落下物が直撃します。これは絶対に避けられないものであり、可能な限りの対策をしたとしても、首都直下地震のような災害で犠牲者をゼロにはできないのです。

 しかし、それでも行われるべき対策を放棄するわけにはいかないでしょう。災害の後、「行政の手落ち」が指摘され、槍玉に挙げられるのですが、私にできることはないものかと思って、それらの災害について考えるようにしています。たとえば急に地震が起きた時、群衆なだれが起きることを防ぐためには、慌てないことが肝心であり、そのことを知っておけば、慌てて行動しようとする自らを戒めることができます。また、「落ち着いてください!」とでも言うことができれば、自らや周りのリスクを下げることができるでしょう。災害に対して手を尽くすべきは、行政だけではないのです。少なくとも、「行政の手落ち」をあげつらうだけの人間にはなりたくないので、自分なりに勉強しているのです。

 ここで気になるのは、今まさに進行しつつある「地球温暖化」は、災害のうちに入るかということです。地震津波といった災害は、最も急に起こるものであり、適切に行動しなければ、直ちに命に関わります。続いて、豪雨や台風といった災害は、事前にある程度予想ができ、一挙一動が生死を分けるほどではないのですが、しかし場合によってはそのような状況も考えられます。

 では、少なく見積もっても数十年という時間軸で進んでおり、今後も予想される地球温暖化は、きわめてゆっくりと進む「災害」のようなものに分類できるのではないでしょうか?たった1年過ぎたところで、1年前との変化を実感できないほどゆっくりとした変化ではあるのですが、着実にこの地球の温度は上がりつつあります。刻一刻と状況を変える地震津波といった災害には手を打つのに、影響が感覚的に理解できないからという理由で、地球温暖化の脅威を軽んじてよいのでしょうか?

 スパンの違いこそあれ、地震津波に対処するのも、地球温暖化に対処するのも、根は同じように思えます。我々の生活に影響を及ぼすあらゆる現象に対して、できる限りの手を打ちたいのです。もとより無理なことに取り組む必要はありませんが、落ち度があったと後から振り返った時、「後悔」が生じるのです。私は、その後悔をできる限り減らしたいのです。

 このように書くと、まるで姿の見えない外敵が、一方的に我々の暮らしを脅かしているように見えてしまうのですが、そうとも言い切れません。地球温暖化が進んでいるのは、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスの濃度の上昇のためであると考えられていますが、それらを排出しているのは、ほかならぬ人類です。地球温暖化によって、豪雨や台風は激甚化するとされます。人の営みによって地震津波が激甚化しているという根拠はありませんが、適切な対策を取らなければ、これらの被害は大きくなります。人類が対策を取ることを拒んだために被害が大きくなるというのは、やはり人類自身が招いた結果なのです。

 そして、後悔を減らし、被害を減らすための営みが、防災です。全く被害をなくせるわけではないものの、できる限りのことをしようとすることは、無駄ではないと信じたいものです。

 災害を防ぎ、被害を減らすためには、まず我々の社会にどのようなリスクが潜んでいるかを見極めなければなりません。「地球温暖化とは原発を廃止させないための詭弁」などと断じ、いたずらに現実から目を背けているようでは、真なるリスクは見えてこず、対策をすることができません。そしてその間にも、災害は迫ってきます。放っておけば、被害が出ることを止められないでしょう。

 先に示したように、災害を防ぐために対策をするのは、簡単なことではありません。正しいと思ったことをしたとしても、うまくいくどころか、むしろ悪化してしまうことさえあるかもしれません。それでも、目を背けるわけにはいかないのです。

 原発を廃止するかしないのかという議論は、路線の違いから生じます。安全を追求するために何が必要かを考えた時、ある人は原発の廃止は絶対に必要であると断じ、またある人は原発を存置したうえで安全に務めるべきであると断じます。両者は、それぞれ異なる部分に着目して論を展開しているのですが、往々にして平行線を辿ってしまうため、放っておけば闘争になってしまいます。(そもそも、完全な答えなど存在しないのでしょう)

 しかし、対立ばかりしていては、何もなすことができないままです。そのため、この社会では、対立を残したまま、各人ができることをするのです。

 その過程では、互いに批判し合い、憎しみ合うこともあるでしょう。それでも、現実を良くするために、動こうとしているのです。現実から目を背ければ、そのようなこともなくなります。都合の悪いことを人のせいにしたとしても、この社会で生きていくためには支障がないのですが、それで本当にこの環境を守り抜けるでしょうか?

 私には私なりの立場があり、相容れないこともあるのですが、それでも、私は私にできることに取り組みます。そして、さまざまな思想に触れ、理解を深めることによって、「私にできること」は増えていくと思っています。周囲の期待に応えられるほどの人材になれるとは思っていませんが、私の存在が社会にとってプラスになることを夢見ています。

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 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。私がこのブログに投稿できる記事は、これで最後になります。私は「rerayブログ」に今回を含めて13本の記事を投稿してきました。これら13本の記事に一貫している部分もあれば、回を重ねるうちに変化した部分もあると思います。(複数本の記事を読み比べてみると、私の思想がより多面的・重層的に見えることでしょうが、数千文字~1万字超の長さの記事を毎回のように投稿しているので、そう簡単には読めないでしょう)なにしろ2年弱ものの間、定期的に記事を書き続けたわけですから、同じではいられないわけです。

 この2年弱のうちに、世の中はずいぶんと変わりました。私自身に起きた変化は、世の中の変化に影響されたものなのか、自ら変化したものなのか、正直よくわかりません。このブログに過程を示せるのはここまでですが、私自身はこれからも変わり続けるものと思います。またどこかでお会いすることがあれば、新たな私の姿を示せるはずです。

 その時まで、じっくりと力を蓄えたいと思います。

【第95回】まえだのエピローグ

お久しぶりです!まえだです!
1日遅れてしまって申し訳ないです、、、

前のみなさんもおっしゃっている通り、このリレーブログも終わりに近づいています。1番最初の投稿が2019年11月23日だったので、ほぼ2年になりますね、、、いやはやお世話になりました

思えば当時の私は、後先考えず行動していたように思います(^^;
このリレーブログも、Facebookで見かけて衝動的に参加の意思を決定したはずです。しかも田村さんとは共通のイベントで知り合っただけで、お知り合いか?と言われればそういうわけではなく(^^;
急にお声かけしてすみません💦

2年前の秋、Facebookを使い初めて、色々な方に出会いましたし、色々な経験もしました。当時高校生だった私にはどれも未経験で、新鮮な出来事が多かったです。ここで得た経験を学びに変えていくことが必要だなぁと最近思います。レポートなんかを書くときには特に!

自分の経験は書けても、そこからどう発展するかを書けないからです。それだとただの感想文ですよね。大学生のうちだけじゃなくて、大人になったときに、このリレーブログも、自分の血肉(?)になるようにしていきたいです!

2年間ありがとうございました!

【第94回】生きるって難しいのか

こんにちは。ぐっさんです。

もうこのブログも終わりに近づいているそうで、このブログに参加して思い返してみれば長かったのかなと思いました。

テーマを何にしようか迷っていて、近頃笑ゥせぇるすまんにハマっているのでそれにしようと思ったのですが、書けそうにないので違うテーマにしました。

 

ちょうど今日友人からLINEで 死にたくなったので生きる実感を得るために食事を取った と連絡が来ました。彼はいつもそのようなことを嘆くので心配はしていないのですが、僕は考えすぎだろと思ってしまいます。

 

生きることに対して考えることはいいことだと思います。自分がどのように生きるべきかなど考えた方がいいこともあります。しかし、考えすぎというのはただ自分の生きようとする力を削いでいってしまうのではとも思います。

考えることによって行動した時に意味が、理解が深まることは事実ですが、考えすぎてしまうと行動にすら繋がりそうにないこともあり得ます。

 

続けて彼は、死という終わりが最後でその先に何も残らないなら生きている意味ってあるのか と返信してきました。

 

何も残らないから生きている意味がないということは何かが残ることによって生きている意味があるとも取れそうです。

しかしこのある、ないというのは死後の自身の認識の中での話であると思うので、死後の世界は誰も分かりませんから想像上の話になってしまいそれこそ考えなくて良いところです。

 

そもそも我々は生まれた時から死が必ず決まっているので死ぬことに対してそれほど考えることではないのではないでしょうか。生まれたら死ぬことが必然であるのに死があるからといってそれまでの人生の過程に意味がないなど考えることすら無駄に思えてしまいます。

 

これから先、心が疲れた時に彼のように人生の意味について考えることがあるやもしれません。

特に仕事で息詰まってそうなるだろうなーと今から想像ができます。

社会の役に立ってとか周りの期待に応えてとかではなく、先ずは自分のために、自分を愛するようにさえすれば人生は無意味だと嘆くことはないだろうと。

 

私は全てのものに意味があると思っていますし、信じています。

病気で死にかけてからそう思うようになりました。

 

これからも全てのことに感謝をして、今を生きてこれているこの瞬間にも喜びを常に感じれるような時を過ごしていきたいです。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第93回】これから社会に出る僕へ

どうも。くぼはるです。

 

このブログも節目らしいです。思えば、田村君から誘われ投稿を始めて相当な期間になっていました。ブログも節目ではありますが、僕の人生においても学生からの脱却が近づいています。現在地を確認するべく、筆を執りました。

 

高校生の頃、担任の先生との二者面談で将来の話を聞かれたことがある。思いつきか何だったのか、その回答に至ったプロセスは一切記憶していないがどう答えたのかは覚えている。

「社長になりたいです!」

そう先生に言ったのだ確か。先生はたぶん志望大学だとかを聞きたかったのだと思う。その意図を読み取らずに勢いだけでそう答えたのだから出来の悪い学生である。でも先生は僕のその発言をいたく気に入って、卒業証書を手渡しして下さる際に、他のクラスメイトに聞こえるように、

「社長になってくださいね」

と声をかけて下さった。その事を覚えている同級生たちは、そういえば社長にはなれそう?などと聞いてくるようになってしまった。

高校生の頃、何故社長になりたいと答えたか。何かすごいものになりたかったのだと思う。

 

正直、僕の現在地は全然すごくない。

 

みんなとは違う生活を、普通じゃない人生に憧れて言い放った「社長」の二文字。全然届いてない。でも22歳になった今日まで、最初の予想以上の大学生活が送れているし、誇らしい出会いもたくさんした。お金の話じゃないが、個人的な経験の収支は間違いなくプラスに寄っている。

これから社会人としての生活が待っている。就職先が決まり、いわゆる「普通」に邁進する日々だ。でも僕は知っている。地方で活躍している人々を。地方で輝く人々を。都会の人が考える普通の枠から外れた幸せを、大学生活中で僕はたくさん見せてもらった。

もし社会に出て何か違うと感じた時、逃げじゃなくて攻めの選択肢を選びたい。その為のマインドは大学生生活で得ることが出来た。これからの僕を、どうかどうか、温かく見守ってください。

 

僕にアウトプットの機会を与えてくれた事、そしてここまでスケジュール調整をしてブログの継続を導いた田村君に最大限の敬意と感謝を。

 

最後になりました。

またどこかで。

 

それでは。