【第93回】これから社会に出る僕へ

どうも。くぼはるです。

 

このブログも節目らしいです。思えば、田村君から誘われ投稿を始めて相当な期間になっていました。ブログも節目ではありますが、僕の人生においても学生からの脱却が近づいています。現在地を確認するべく、筆を執りました。

 

高校生の頃、担任の先生との二者面談で将来の話を聞かれたことがある。思いつきか何だったのか、その回答に至ったプロセスは一切記憶していないがどう答えたのかは覚えている。

「社長になりたいです!」

そう先生に言ったのだ確か。先生はたぶん志望大学だとかを聞きたかったのだと思う。その意図を読み取らずに勢いだけでそう答えたのだから出来の悪い学生である。でも先生は僕のその発言をいたく気に入って、卒業証書を手渡しして下さる際に、他のクラスメイトに聞こえるように、

「社長になってくださいね」

と声をかけて下さった。その事を覚えている同級生たちは、そういえば社長にはなれそう?などと聞いてくるようになってしまった。

高校生の頃、何故社長になりたいと答えたか。何かすごいものになりたかったのだと思う。

 

正直、僕の現在地は全然すごくない。

 

みんなとは違う生活を、普通じゃない人生に憧れて言い放った「社長」の二文字。全然届いてない。でも22歳になった今日まで、最初の予想以上の大学生活が送れているし、誇らしい出会いもたくさんした。お金の話じゃないが、個人的な経験の収支は間違いなくプラスに寄っている。

これから社会人としての生活が待っている。就職先が決まり、いわゆる「普通」に邁進する日々だ。でも僕は知っている。地方で活躍している人々を。地方で輝く人々を。都会の人が考える普通の枠から外れた幸せを、大学生活中で僕はたくさん見せてもらった。

もし社会に出て何か違うと感じた時、逃げじゃなくて攻めの選択肢を選びたい。その為のマインドは大学生生活で得ることが出来た。これからの僕を、どうかどうか、温かく見守ってください。

 

僕にアウトプットの機会を与えてくれた事、そしてここまでスケジュール調整をしてブログの継続を導いた田村君に最大限の敬意と感謝を。

 

最後になりました。

またどこかで。

 

それでは。

【第92回】体調が悪いので許してください

さて #reraybog も92回となりました

今週の担当は田村です。

 

何を書こうか悩んでいた今週はどこに行ったのか、ここ数日は床に伏していました。

というのも、体調を崩しまして。

1日目は発熱と頭痛

2日目は発熱と頭痛と下痢

3日目は発熱と下痢です ←今日

 

考えられる原因は2つ

①ここ数日で急激に寒くなったこと

②食生活が悪かったこと

これらが原因で下痢を起こし、それによる発熱があったと思われます。

 

それでもだいぶ熱も下がったのでこうして起き上がってきてブログなんか書いてるわけですが、寝てろってのが正当な意見だと思います。はい。すみません。

 

ほぼ3日もスマホやパソコンから離れていると、あわただしく状況が変化するものですね。いかに毎日このデバイスに助けられているかということがよくわかります。

 

今日はこのあと夜にオンラインの予定があるだけですが、昨日一昨日は予定ぎっしりだったのに全部リスケ&欠席させてもらっちゃったので本当に申し訳ないことをした。

 

体が大事ってのを改めて感じた次第です。寝ます。

【第91回】良いプライド≒正しい見下し方の作り方

今週は伊藤迪が担当する、第2回目の記事となります。

好き勝手書いておりますが、よければお付き合いくださいませ。

 

突然だが先日私は、岡田斗司夫氏の動画『【これからの日本】正しい上から目線!』に触発され、自分のFBに『スッキリ解消・イトウのジレンマ』と題した投稿をアップした。

 

これにはいろいろな反響があり、投稿した自分とすればかなり面白かった。

というわけで、その投稿の文章を以下にそのままコピペしてしまおうと思う。しかし面白さのあまり40分ほどで書いたのでよく覚えていないが、恐らく2400文字以上あった気がするし、かなり過激なことも書いたと思うが、一応読んでみていただければと思う。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

※深夜テンションで言いたい放題ですがご容赦ください。

 

 自分は良くも悪くも普通ではない。いや、普通になりようがないと言うべきだろうか。

経歴、やっていること、考え方、視点etc…。

普通という言葉が大量に併せ持つ矛盾や疑問点はこの際置いておくとして、恐らく間違いのないことだろう。

 そんな自分にはジレンマがあった。それは、

活動をしているうち、

「つい偉そうと思われてしまう」とか

「歯に衣着せぬ物言いをぶっ放す」などなど。

これだけならばジレンマにはならないが、人と比べてできるところとできないところが元来激しい自分には、そのジレンマは常に付きまとうし、そんなんだから母にはいつも注意されてきた。

それも何かしゃべると大抵言われるので、なんなら自分を出さず、自己アピールすらしないのが母の美徳なのかもしれないと思うまであった。

それに対し自分はどうこう言うつもりもないし、なんなら今の自分が多少なりとも輝けているのは、ある側面ではその教えを気にし続けてきたからだと思う。

しかし最近、どうにもジレンマと感じることが多くなったのだ。

それは、自分を出すとつい、「偉そう」とか「見下したよう」とか「ひけらかしている」という『自己評価』になってしまうことだ。

 

でもなぜ偉そうに思われるのか?という話だけれども、自分はほかの人とは違いすぎるからである。

まあ、数字で表してあるのが知能指数しかないのでこれを多用してしまうが、一人の人間の中に、偏差値52と83が共存してしまっているのだから、当然と言えば当然である。

だから人と同じような行動はしてこなかったと思う。

でもその分だけは悩んできたし、努力もしてきた。

しかし、はたから見ると偉そうだったりするらしい。

なにも偉ぶる気などさらさらないし、自分の経験を話しただけなのに、である。

第一、自分のしてきたことを胸高らかに宣言して何が悪いのか?と。どうにも矛盾だらけで基準が定まらない。

まあそれが、アスペルガー症候群的なところだと言われればぐうの音もでないのだけれど。

しかしそれゆえに、何をするにもどこかで自信が持てない。

 

まあそんなこんなで考え続けていたとき、ある1本の動画に出会った。

岡田斗司夫「【これからの日本】正しい上から目線!」

自分はこれにすごく衝撃を受けた。

ここで岡田氏が言っていることを、大きくまとめると、

「プライドを捨てろというのは幻想」

 ↓

「プライドが高いことは祝福と呪いで義務が伴う」

 ↓

「プライドを下げるのではなく、プライドに見合う自分になろう」

「上から目線で見下すのなら、見下していい仕方でしよう」

という話。

 

岡田氏自身も動画で粗の多い話と言っていたが、少なくとも自分はこれに感銘を受けた。

曰く、見下すにも悪い見下し方といい見下し方があるとのこと。

まあこれに関しては動画を見ていただくのが早いと思うし、あんまり転用するのも敬意に欠けるうえプライドが許さないのでしないが。

が、すごくザックリいうと、見下すなら「こいつらバカだ」ではなく、「こいつらのために自分はこうしよう」と考えろ、ということらしい。

 

これを自分の体験に当てはめてみると・・・。

例えば、拘束力のない学生活動で周りが動いてくれないとき、ついつい

「こいつらなんで活動に積極性を出してくれないんだ?自分んらの経験にもなるものじゃねえかっ!」と考えてしまいがちだが・・・。

逆に考えて、

「こいつらは動かんし、ぱっと理解してくれん。ならばわかってもらえるような説明をして、動きたいと思えるようなモデルになろう!」

と考えると、いい見下し方になるよ、ということ。

もっと言えば、見下すということは問題に気付いたということだから、気づいた人間には責任がある。そして責任を果たした時点で、いい見下し方になっている、ということらしい。

 

「らしい。」と書いたけれども、これにはものすごく納得している。

思い返せば、自分も人のことをバカにしまくっていた時期があるし、何ならその時は嫉妬だらけだった。

でもそうしてひと時の悦に浸ったところで、充足感なんてものはまるでなかったわけだ。

それがいつしか、嫉妬の仕方すら忘れてしまって、色んな人に囲まれお世話になって毎日楽しい自分がいる。

でも実際社会を見渡すと、悪い見下しかたをしている人がゴロゴロいる。そんななかにも例外はあるかもしれないけれども、大抵陰口を叩かれるか、上の役職へ行けばクソ上司呼ばわりにされるのがオチだけれど。

 

でもそれは当然である。上にもちらっと書いたが、見下せるところに気づいてもその責任を果たさない人間には、充足感なんてものは得られなくて当然だし、得られないからこそ得ている人間に対して嫉妬に苦しむのも、また因果応報だと思うわけだ。

まあこれは過去の自分に対しての見下しでもあるが。

でもそうして、「こいつら生産性のない見下しかたしてやんの笑」などと見下す暇があるのならば、見下してもいいだけの努力や経験を積んで、正しく見下せる人間になって、今を生きる自分として、プライドと中身を釣り合わせていけばいいということだと思う。

そしてこれはきっと、自分がよく言っている、

「気づきに感謝する」ということと表裏一体な気もしてくる。

その発言を相手に言うこと自体は純粋なる敬意なのだけども、その実、「気づきに変えて進化できた自分」が面白くて気持ちよくて言っているのも間違いないこと。

 

それでもし、「プライドに追い立てられる自分」とか、「プライドがプライドになる自分」だったり「年老いてプライドの中がスカスカになってボケていく自分」とかっていうのが怖ければ、「俺は無理なプライドは持たずに生きている賢い人間です!」というプライドを作って行動していけばいい。

 

しかしこれをブッ放していると、自分で言っておきながら昔の天動説みたいに

「星の動きが説明できなければ軸を増やせ!」的な荒唐無稽な暴論に聞こえないでもないが、結局自分は大量のプライドを持って生きていて、かつそれを捨てられないわけで。

それに対し足掻いて苦しくて能率を下げるくらいなら、それを活かして楽しく自分をデッかくしながら生きようぜっていうイメージ。

それに、自信がないほど虚勢を張りがちなのが生存本能だし、逆に言えば自信を持つことで、妙にひけらかすこともなく、無駄なく安定感を持って、イタい遠吠えをせずとも穏やかにアグレッシブな活動ができるということ。

まあある種の悟り的なもんだろうな。

 

結局何しても目立つし面白くするし、一生モブにはなれないのだから。

なんか楽しく生きられそうなので、とりあえずやってみる。

動画を通じてこのアイデアをくださった岡田斗司夫氏に、感謝です。

 

そしてもし興味を持っていただけたなら、他の動画も見てみられてください。

かなり面白いですから。

 

 

というように、いかにも深夜テンション的な、過激さ満載の持論をド派手にぶち上げた投稿をした。

しかしこれは、過激とはいえある面では間違いではないのだろうと、自分では確信を持っている。

実際、今の自分は間違いなく『良いプライド』を持つことによって本領を発揮できたと思うわけであるし。

しかも、それ以前の自分を思い出すと、「俺はなんでこんなことを言ってたんだ?」とか、「何でこんなことをしてしまったのだ?」と思うようなことばかりである。

 

と、ここまで言ったらこの際洗いざらいゲロッちまえ!と思われる方もおられそうなので、いくつかぶちまけることにする。

まず岡田氏曰く、プライドとは誰かを見下すものであるそうで、恐らくこれは間違いないと思う。

そのうえで、ここにおいて悪いプライドというのは誰かをバカにしたあげく悦に浸って終わるとか、挙句一時期の充足感に酔いしれた挙句もつれて嫉妬するような、そんなマイナスに動くものと考える。

そしてここから先は先ほどの投稿では書ききれなかった範囲にもなっていくけれど、嫉妬したり悦に浸るだけで終わっていくと、結局自分の能力としては停滞するわけだ。まあそれは何もせず指をくわえて人に悪感情を募らせぶつけるだけだから当然。

それに、停滞は後退を意味する、なんて言葉もあるくらいだから、自分の地位としてはどんどん後退して、地獄のループに入るということ。

まあこれに関しては、自分は何度も経験してきた。

で、そんなとき何をしたかというと、自分より何かを持っている人を攻撃したわけだ。

例えば、立場をわきまえることもなく、あたかも自分が正義であるかのように長所を振りかざし、

「先生より俺の方が授業上手い!」と言ってしまったり、「なんであいつが級長なんだ!?」と言ってゴネたり。

当然ながら、そんなことを言っているのは周りが見えない証拠であるから、級長になることも、まして教鞭をとるなど、できるはずもない。

或いは自分が持っていないことを正当化するように、

「俺は学校に行けない。でもあいつらは苦も無く行けるじゃないか!だから俺は勉強しない!」

と、学校に行って必死に頑張る彼らのことを知っていながら攻撃してしまったこともあった。

 

今考えれば自ら品位を落としにかかる大馬鹿野郎だが、これもすべて、悪いプライドが為してしまうこと。

ある面では一種の現実逃避であるし、麻薬中毒のようなものだったと思う。

 

しかし。今の自分は少なくとも、その中毒症状からは抜け出すことができた。

 

ではなぜ抜け出せたのか。それは自分の場合、

 

「行動に過ちがあったと認識し後悔」

 ↓

「持ってきたプライドがぶち壊される」

 ↓

「悩み抜いて、ときに相談して、答えをある程度見つける」

 ↓

「行動して観測する」

 ↓

「成功したりやらかしたり・・・」

 

という、PDCA的な行動のカタチであった。

ただ、これを実行して繰り返していたとき実は、「いいプライドを持てばいいんだ!」なんてことは知らなかったし、そもそも自分の持っているのがいいプライドかどうか、自分はどういうふるまいをしているのか、それすらも分からなかったと思う。

つまり、人間関係における状況認識能力や経験値に大きな問題があったため、とにかく雲をつかむようにトライアンドエラーを繰り返すしかなかったというわけだ。

 

それゆえ自信をほかのところで補いながら、それでも幾度となく闇落ちし、乗り越えた末何年もかけてようやく、悪いプライドから来る魔のループを抜け出すことができたのだ。

 

だがそれをするには、これまで自分が信じて行ってきた行動や信念そのものまでもを作り変えてしまう勇気と、新しいカタチが見つかるまで考え続けなければならない、絶望的な疲労感とストレスに耐え抜くチカラが必要である。

ただそれが自分には大変重い負担であったから、通学中に自転車で居眠り運転をしたことだってあるし、何度も体調を崩し、何度も学校で倒れた。それにより、一日に活動できる時間が平均4時間しかなくなってしまったこともある。

 

それにより、周りの人との成長の差にも悩まされた。

学業にも私生活にも支障をきたし、周囲と比べ何年も後れをとった自分は、全日制の学校に進学することがかなわなかった。ただ、その代償によってはじめて私は、これまでしてきた過ちや後悔を失敗で終わらせず経験値にできるようになり、プライドにとらわれない思考と、暴走ではなく勇気を持った行動ができるようになったのだ。

 

そして新たに生まれるのは、良いプライド。

 

それはこの場合、

『自分は色んな人と接するなかで、成長できた』

『失敗して悩んでも経験値に変えられる人間だ』

『人に対して悪意をぶつけず、自分の力に変える方法を知っている』

等々。挙げればきりがない。

 

ここまで来ると読んでおられる方なら大体感じられると思うが、これでも堕落してしまえば『悪いプライド』になる恐れは十分にある。

 

それでも自分が『いいプライド』と言い切れるのは、プラスに考え続けて、楽に生きられるようになったという成功体験を積み上げてきたからに他ならないし、二度と魔のループに入りたくないという思いが、自然に自分を駆り立て続けているからでもある。

 

それに人間というのは、成功したと思ったことを繰り返す性質にある。ただその成功を維持しようと思えば、努力や労力を惜しまず、

「プライドを維持するために、持っているプライドに見合う自分へ自分を持ち上げようとすればいい」わけだ。

これは岡田氏が言われていたことを引用したものだが、自分の感覚からしても間違いないと感じたうえ、これ以上的確な表現を見つける自信が今のところないので、ここに記しておく。

 

つまり、プライドを持つことで自分を高めていく、そうすれば決してデメリットばかりにはならない!というわけだ。

 

しかしここまできて、何か思われる違和感はないだろうか。

自分が読者ならばこう感じる。

「プライドに合わせて自分を持ち上げても、偉そうとかって言ってくる奴おるだろ?」と。

 

これに関しても、全くその通りだ。特に学校のクラスなんかの場合ではその傾向が顕著だと感じる。

 

それは何故か、考えてみた。それは結局、自分と同じフィールドにいるのに自分より輝いて居たり、楽しそうにしている者たちに対する嫉妬でもあるわけで。するとやはり介在するのは魔のループだと自分は思う。

これに関しては一般にコントロールのしようがない、他人のループの巻き添えである。

 

まあそれは当然と言えば当然。自分が成功したからと言って他人がその『いいプライド』を持てるわけでは決してないし、まして人に自分のことが100%正確に伝わることは、断じてありえないからではないだろうか。

 

しかしそれも、自分がいいプライドを持っているならば、対処法はいくらでも広がる。

なぜならいいプライドというのは芯がきちんとできているから、かなり柔軟に変形させて対応できるものであるし、持っている芯と比較して些事と思えれば、受け流すことすら可能なのだから。

 

たとえば自分は、『他と違いすぎる自分』という要素を逆手に取り、自分というブランドで社会に貢献できること、即ち胸を張れる自分の姿を目指して『違うからこそできること』を実践してきた。

 

そしてそこまでやってしまえば、FBの引用にもあった通り「こいつら残念な奴らだなwww」と思ったとしても、そう思ってもいいだけの責任を果たして自分を大きくすること、つまり悪意すら力に変えることもできるようになる。

 

ただ、ここまで来る苦しさと比べれば、コスパは悪い。

それでもその苦しさを乗り越えたからこそ、肩の力を抜いて活動に打ち込めるようになり、一日16時間活動し続けて睡眠時間が4時間しかなくとも、悪意にあてられたり苦しいことがあろうとも、基本はノーダメージで済むようになった。そうしてみれば、今のところは成功だと思う。

 

しかし。そのコスパの悪さとストレスの量は明らかに異常であるため、自分のようにどうにか生きていられる事例というのは、案外レアなのだろうと思う。

 

ではなぜ自分はこうして生きているのか。

それは間違いなく、多くの方々に助けていただけたからだ。

ある時は人の道を教わり、ある時は暖かく受け止めていただき、未熟な自分でもチャレンジする機会をたくさん用意していただいた。

そのおかげで私は人を嫌いになることがなかったし、人のために生きるという指標も見つけることができた。

 

そして、全日制高校をあきらめ、フリースクールへ通うようになってからは、境遇の近い児童・生徒や、生徒ひとりひとりにあった指導をしてくださる先生方のおかげで、時間はかかったが自分の存在に価値があると認識できた。

それにほとんど拘束時間のない環境のおかげで、ほかのところにいては到底成しえなかった経験をたくさん積むことができた。

 

そしてこれに関して、「全日制をあきらめた」と書いたが、それから3年近く経った今振り返れば、この選択は大正解だったと思える。

それだけ、人とのかかわりは重要である。そしてそれ以上に、時に手段やプライドにこだわらず、自分に合った道を遠回りでも選んでいく柔軟性が、大切になってくるということだろう。

 

そしてそのおかげで、自分を高めつつ、人への感謝だけは絶対に忘れぬ人間であろう。人のために生き、人に寄り添える人間になろう。

 

自分のように苦しい思いをするこどもたちを応援する人になりたい。そう志を持つこともできた。

 

だから今も、これからも修練を積み、誰かに寄り添えるよう粉骨砕身駆け抜ける毎日だ。

 

そして最後に。

この投稿が誰かに刺激を与えられたならば、それはもう最高にうれしいことだ。

ただこの投稿に書いてあることは、あくまで自分の主観的経験に過ぎないからして、参考にならない場合も多いと思う。

ただその場合でも、何らかの形で思考のきっかけになればと思い、こうして公開することとした。

 

ここに生まれたことに意味なんてない。でも、生まれたからには楽しまないと。

誰もがギフトを持っている。時間を使えるプレゼントもある。

だからこそ誰もが、己に合った生き方を、思う存分すればいいと信じて。

【第90回】アドベンチャー系の映画やアニメでよくある、主人公一行が求めている「宇宙一のお宝」の正体が豆腐だった時の対処法と仮にその豆腐が世界を滅ぼすほどの威力を持っていた時に人類はどう立ち向かえばいいのかという話

やぁ!俺の名前はキャプテン・ビーンズ。この世界に一つだけ存在するという「伝説の秘宝(レジェンダリー・トレジャー)」を求めてこの大宇宙を仲間と共に旅をしてきた。

長かった旅もついに終着点。俺たちの最後の旅が始まる、、、

 

最終話【豆腐】

 

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【第89回】77年の距離

 こんにちは。平田将達です。なかなか時間が取れない今日この頃ですが、相変わらず自己満足のための記事を書き続けております。この記事を読むことで、後からでも何かしらの気付きが得られるならばこれほどうれしいことはありません。

 こんな私にできることは、目先の記事をより良いものにすることくらいではなかろうかと思って、今回も入魂して執筆させていただきました。今回のテーマは「時代の連続性」です。流し読みでもしていただければ幸いです。

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 去る8月15日は、日本にとって76度目の終戦記念日でした。76年前、この国の至る所が焦土と化し、その瞬間も多くの人々が危機に追いやられていた中で、日本は本土決戦の道を諦め、無条件降伏を果たしたのでした。あれから4分の3世紀以上が経ち、日本の国土に敗戦直後の面影はありません。この年月の長さといえば、戦後すぐに生まれた世代が働き終え、後期高齢者になるほどのものです。

 この長さを比較によって表してみると、明治維新(1868年)から終戦(1945年)までが77年であるのに対して、来年(2022年)で終戦(1945年)から77年ということがいえます。つまり、来年の時点で、終戦からの経過年数が、明治維新から終戦までと同じになるということです。このことに気付いて以来数年間、私の中では、4分の3世紀に相当する「75年」よりも「77年」を大きな節目として位置付けてきました。

 もちろん、物理的に同じ長さであるとはいえ、体感的な長さまで同じであるとは言い切れません。戦後の日本は激動の時代を迎えてきたとされますが、ある程度の長さのことを「つい昨日の」ように感じてしまうのが人間の性です。歴史の教科書には戦後史の記述が乏しいように、我々は近い時代ほど時の経過を認識できていないのではないかと感じさせられます。

 例えば、2000年の東京の景色を、映像を見るなどしてイメージするならば、それは1945年の東京とは全く違う光景に違いありません。行きかう人はオシャレな服を着ているし、高層ビルが林立する中を歩いていることでしょう。

 この光景を目にすると、今と変わらないではないかという気にさせられてしまうのですが、よく見ると、確かに今とは違う点もあります。2000年の時点では、地下鉄の中でスマホを開いて、ワイヤレスイヤホンでYouTubeにアクセスして好きなバーチャルYouTuberのASMR動画を再生することはできませんでした。その他、目に入る建物が今と違うとか、人々のファッションや、街中に貼ってあるポスターの内容など、現在との違いをいくつも見出すことができるでしょう。なぜなら、2000年と2021年は21年も離れているからです。例え2000年が昨日のように思われたとしても、その景色は昨日のものではありません。

 昔のことならば完璧に記憶されているのかといえば、決してそうはいきません。昔というのは記憶の彼方に潜むものであり、思い違いをすることがありますし、美化することも貶すこともできてしまいます。ましてや経験していない時代のことをよく語れないのは、そもそもよく知らないことが原因であるともいえます。

 では、昔のことは語れないのかと言うと、これもまた当たりません。日本に生きる我々であれば、だいたいの人が「旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代(南北朝・戦国)→安土桃山時代→江戸時代→明治→大正→昭和→平成→令和」という大枠を作っており、それぞれの時代がどんなものであったかは、その人の持つ知識を使って語ることができるはずです。そして、もっと知りたいと思うならば、本を読む、映像を見るなどの手段で情報を得ることができます。それは、あらかじめ作ってある大枠に新たな知識を上塗りし、間違ってはめてあるパーツを外して取り換えるようなもので、これを際限なく繰り返すことでどこまでも詳しくなれるものと考えています。

 しかし、歴史を扱うのは難しいことで、なかなか自由に出入りできるものではありません。いかに知識を上塗りしたところで、昨日の記憶をそのまま今日に持ってくることはできないのです。そして、難しいのは、川が流れるように移りゆく歴史を、どのように記述するかということです。

 先ほど挙げた「明治維新→敗戦」と「敗戦→2022年」を例に挙げると、この2区間の時間の流れは本当に同じかどうか気になったとして、このことを客観的に検証する手段はありません。まさか、「原始人のような素朴な社会では、時間の流れはゆっくりだ」などというように、我々のイメージで語るわけにはいかないでしょう。ただ、77年という物理的には同質な時間の流れがあるだけです。

 日本史の時代区分を先に挙げましたが、時代区分は好き勝手になされるものです。戦後の日本は、1945年8月15日からスタートしたものとして、「あれから〇年」といった体で語られます。私も、「76年」「77年」という長さを引き合いに出し、明治維新から終戦までと同じ年数に差し掛かっていることを指摘しました。

 しかし、区切った前後が全く別の世界になるかといえば、必ずしもそうではないのです。例えば、戦後は1945年8月15日から始まったとはいえ、日本が降伏を決めたのはその直前数日間にわたっての会議の成果ですし、降伏文書に調印して正式に終戦協定がなされたのは9月2日のことでした。また、8月15日の時点では、樺太・千島や南方戦線において、日本軍はまだ交戦状態にあり、彼らは降伏の報を聞き次第、順次停戦していったのでした。少しずつ移ろうのが歴史の本質で、その積み重ねが歴史であるとするならば、まるでグラデーションのように色が移っていくその「揺らぎ」を、どのように記述するかが腕の見せ所ではないかと思います。

 先の段落では、日本の「降伏」について揚げ足を取るようなことを書きましたが、実際に戦争を語るならば、長いようにも短いようにも捉えることができる時間の流れ方を、極めて慎重に検討しなければなりません。単に「戦争の頃」を漠然と指すだけでは、見えるものも見えてこないのです。

 第二次世界大戦においては、まさにその時代区分が肝心で、「戦争はいつ始まり、いつ終わったのか」という点についてどう考えるかによって、見え方が大きく変わります。

 太平洋戦争として、アメリカ・イギリスと戦ったのは4年弱ですが、日中戦争と区分するならば中国とは8年間以上も戦ったことになります。満州事変から起算するならば「15年戦争」と呼ばれますし、極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)では、1928年からの17年間に起こったことが戦争犯罪として審理の対象とされました。日本史においてはあまり聞きませんが、2度の大戦の舞台となったヨーロッパにおいては、第一次世界大戦第二次世界大戦を連続したものとして語ることさえあります。「どこからどこまで」語るのかを明確にしなければ、戦争を語ったことにはならないのです。

 そして、先の「戦争」というものに対して、我が国のリーダーたちがどのように対処してきたかを簡潔にまとめると、以下のようになります。

 

①清浦奎吾(1850-1942)

官僚出身。1922年に没した山県有朋の後を受けて枢密院議長に就任し、次いで首相に任命される。組閣後間もなく高橋是清加藤高明犬養毅護憲三派による倒閣運動に遭い、総選挙で大敗して内閣総辞職。その後も死去する直前まで政治に携わり、重臣として満州事変や太平洋戦争開戦を経験する。

加藤高明(1860-1926)

官僚出身。1900年に第4次伊藤内閣で外務大臣を務める。立憲同志会を経て憲政会の総裁となり、立憲政友会高橋是清革新倶楽部犬養毅とともに清浦内閣を倒し、首相に就任する。普通選挙法と治安維持法は「アメとムチ」と評価される。肺炎によって首相在任中に死去。

幣原喜重郎(1872-1951)

外交官出身。1924年から1927年まで外務大臣を務めた時、まだ統一政府が成立していなかった中国(中華民国)の内政に干渉することを拒否し続けた。戦後の1945年には首相を務め、GHQ幹部と協調して戦後日本のあり方を模索した。

田中義一(1864-1929)

陸軍から政治家に転身し、立憲政友会の総裁として首相になる。首相就任時には外務大臣幣原喜重郎を任用せず、自ら兼任して中国の内政に干渉した。在任中に治安維持法の最高刑を死刑に引き上げる。関東軍によって中国軍閥の指導者である張作霖が暗殺され、その対応を巡って昭和天皇に叱責された後、内閣総辞職。その後まもなく病死。

犬養毅(1855-1932)

西南戦争に記者として従軍し、1890年の第1回選挙より衆議院議員に連続当選。革新倶楽部から立憲政友会に合流し、1929年に死去した田中義一の後を受けて総裁となり、首相に任命される。軍縮満州事変の不拡大方針などに尽力したが、軍部の反感を買って将校に殺害される(五・一五事件)。

高橋是清(1854-1936)

官僚出身。日銀総裁を経て、1913年に第1次山本内閣の大蔵大臣として入閣する。1921年に首相の原敬が暗殺された後、立憲政友会の総裁として首相となるが、閣内の混乱によって短命に終わる。昭和恐慌の後には田中義一内閣の蔵相として日銀総裁井上準之助と協力し、経済の立て直しに尽力する。岡田内閣のもとで6度目の蔵相を担当した際は軍部と対立し、陸軍皇道派のクーデターにより殺害される(二・二六事件)。

岡田啓介(1868-1952)

海軍。首相在任中に二・二六事件が起き、襲撃を受けた。弟が身代わりになって一命を取り留めたものの直後に内閣総辞職。その後も海軍の重鎮として重臣会議に携わり、陸軍の東条英機と対立して終戦工作に走る。江戸時代生まれの首相経験者として最後まで生き残った。

西園寺公望(1849-1940)

公家出身。戊辰戦争では最前線に立って指揮した。1903年立憲政友会の総裁となり、1906年から1912年にかけて桂太郎と交互に首相を務め、「桂時代」の政治を築く。その後、推薦されて元老となり、特に山県有朋松方正義が死去してからは、最後の元老として、太平洋戦争開戦の前年に90歳で死去するまで多年にわたって政治全般に影響力を持ち続けた。

近衛文麿(1891-1945)

華族出身。首相に3度選ばれた。第1次内閣在任中に日中戦争が勃発し、不拡大政策は失敗。第2次内閣では政党を全て解散させ、「大政翼賛会」を組織。第3次内閣ではアメリカとの全面戦争を回避しようとしたが、交渉決裂によって内閣総辞職。直後に東條内閣のもとで太平洋戦争が開戦する。開戦後も政治に関わり続け、終戦直後に憲法改正に取り組もうとするが、GHQによって戦犯に指定され、出頭を拒否して自殺。

東條英機(1884-1948)

陸軍。二・二六事件後に皇道派狩りを行い、関東軍参謀長となった。第2次~第3次近衛内閣で陸軍大臣を務めた。アメリカとの交渉決裂後に首相に就任し、太平洋戦争を開戦させるも、戦局悪化により総辞職。終戦まで重臣会議に携わり、一貫して本土決戦を主張する。終戦後に自殺未遂を図り、失敗してGHQに拘束される。東京裁判では昭和天皇擁護に終始し、死刑判決を受けて刑死。

鈴木貫太郎(1867-1948)

海軍出身。二・二六事件で襲撃されて意識不明となるが、奇跡的に回復を遂げて復帰する。戦争末期に首相に選ばれた。戦争継続について態度を明確にすることを避け、ポツダム宣言による降伏勧告を一度は黙殺したが、原爆投下直後の御前会議で降伏が決定され総辞職。8月15日には終戦に反対する陸軍の国粋主義者によって、再び襲撃を受ける(宮城事件)。首相就任時77歳は歴代最高齢記録。

東久邇宮稔彦王(1887-1990)

皇族にして陸軍大将。日米開戦前に首相候補に挙がったが、木戸幸一の反対にあって断念。鈴木内閣総辞職により首相となるも、戦後処理についてGHQに反発して総辞職。その後皇籍から離脱して東久邇稔彦と名乗る。歴代首相経験者として最も長生きし(102歳)、昭和天皇より年長ながら、より後まで生きた。

吉田茂(1878-1967)

外交官出身で、中国に長く駐在して特に満蒙権益を主張した。また日米開戦を阻止しようとした。戦争末期に終戦工作によって投獄されたが、その経歴がGHQに信用される。東久邇宮・幣原内閣で連続して外務大臣となった後、日本自由党鳩山一郎公職追放されたことにより後任として総裁になり、首相に就任。在任中にサンフランシスコ平和条約日米安全保障条約を締結。後に自民党にも参加した。

鳩山一郎(1883-1959)

弁護士出身。犬養・斎藤内閣で文部大臣を務めるも、汚職疑惑により辞職(帝人事件)。戦争末期には軍に反対して一時隠居する。戦後は公職追放を受けるが、復帰すると日本民主党の総裁となり、自由党と合併して自由民主党(自民党)の初代総裁として首相に就任。日ソ共同宣言を樹立。

岸信介(1896-1987)

官僚出身で、満州国の経営に関わる。東條内閣の商工大臣として入閣し、太平洋戦争開戦を迎える。戦局が悪化する頃、東條とは対立し、東條内閣総辞職に関わり、また早期講和を主張した。戦後はA級戦犯に指定されるが、不起訴となり釈放。公職追放解除後に自由党に入党し、自民党結党後は石橋内閣の後を受けて首相に就任。60年安保改定は大規模な反対運動を巻き起こし、成立を機に辞意を表明するも、暴漢に刺されて重傷を負う。

三木武夫(1907-1988)

明治大学卒業後、1937年に衆議院議員に当選。日米開戦に反対した。戦時中の翼賛選挙を経て、戦後1946年の選挙でも当選し、片山内閣のとき逓信大臣として入閣。自民党に結党から参加した。佐藤栄作の後継としての有力候補の「角大福中」の一角とされる。ロッキード事件により辞任した田中角栄の後継として首相に就任したが、自らも攻撃されて総選挙で敗北し、総辞職。死去するまで51年連続で衆議院議員を務めた。

中曽根康弘(1918-2019)

海軍出身。太平洋戦争中は軍人としてフィリピンに赴く。連合国の攻撃によって部隊が壊滅し、仲間の死をも経験した。戦後、1947年の衆議院総選挙で当選。自民党に結党から参加した。「三角大福」の一角とされ、首相に就任した際には、アメリカを訪問してレーガン大統領との協調路線を表明した。「戦後政治の総決算」を標榜するも、野党(日本社会党日本共産党など)からは厳しく追及される。衆議院議員在職56年。昭和の首相経験者として唯一令和まで生き、101歳で死去した。

村山富市(1924-)

漁師の家に生まれた。陸軍に入隊し、幹部候補生として終戦を迎える。浅沼稲次郎に心酔し、日本社会党公認の大分県議会議員を経て1972年に衆議院議員に当選。1993年に自民党が下野した総選挙で、山花貞夫の後任として日本社会党委員長となり、さらに自社さ連立政権が成立すると首相となる。終戦50周年の際には、侵略に対する謝罪を盛り込んだ「村山談話」を発表した。この記事を投稿した時点で存命の首相経験者として最年長(97歳)。

福田康夫(1936-)

父親は首相経験者の福田赳夫。40歳の時にサラリーマンを辞め、自民党から政界入りした。9歳の時、疎開先の群馬県で前橋空襲を目撃している。

安倍晋三(1954-)

祖父は岸信介。大叔父に佐藤栄作。父親の安倍晋太郎内閣官房長官外務大臣などを歴任。戦後生まれとして初めて首相を経験した。神戸製鋼勤務の後、父親である安倍晋太郎の秘書となった。中曽根首相が訪米してレーガン大統領と面会した際、外相であった父に同行して中曽根・レーガン外交を目の当たりにしており、首相就任後には「戦後政治の総決算」「アベノミクス」など、中曽根やレーガンを意識した発言を行った。「美しい国」政策を打ち出し、自虐史観からの脱却を呼びかけるなど、従来の「戦後」観を刷新することを意識した。終戦70年の際には、「安倍談話」を発表した。

 

 …と、かなり長いわりに断片的になってしまいましたが、76年前に終わった戦争に対して、誰がどのように関わってきたかを、各人のつながりを匂わせながら記述してみました。彼らは日本を動かしてきたうちのほんの一握りの存在に過ぎず、実際にはもっと多くの人たちが複雑に絡み合って、政治を成し遂げてきたことは言うまでもありません。

 単に「戦争に関わった」ことを説明するにしても、人生のどの部分で戦争と関わるかによって、果たす役割はかなり異なっていることがお分かりいただけるかと思います。江戸時代生まれの長老は、人生の最後の部分で戦争を経験したのであり、逆に幼いころに戦争を経験した世代は、今もまだこの社会に生きているのです。

 また、田中義一西園寺公望、清浦奎吾のように、戦争に影響を及ぼしておきながら、終戦までに亡くなっている要人もいます。彼らがもし戦後まで生きていたならば、やはりGHQによって裁かれていたものと思います。戦争とは、歴史上の1地点を指すのではなく、長さを持った出来事であり、途中で没する人も、途中から関わる人もいるということです。

 終戦からすでに76年が経過しました。76年という時の流れは残酷で、終戦の時に14歳だった世代は90歳になっています。戦争を経験した世代というだけで後期高齢者に限られるのが2021年の現状であり、大人として戦争に関わった世代は、もうほとんど亡くなっているはずです。戦後生まれがまだ残っているとはいえ、もはや戦争の記憶はほぼ失われてしまったのではないかと感じさせられるほどです。

 実際、子どもから高齢者のぶんまで多様に保持されていたはずの戦争の記憶は、今や子どもの頃に経験した世代がほとんどとなったことから、多様性をずいぶん失ったといえます。今、戦争経験者から当時の体験を聞くにしても、それは子どもの頃の体験談であり、それが貴重なものであることに間違いはないのですが、その体験談が戦争の記憶の全てではないのです。すでに没してしまった世代の記憶に触れるためには、著作を紐解くなどして、自ら体験するには一生かかっても体験しきれないほどの誰かの記憶に接しなければなりません。もちろん、記録に残るものが全てというわけではなく、それでもなお多くが失われています。そしてその記憶を薄れさせるのは、時間の経過です。

 時間が経てば経つほど、いろいろなものが失われていくに違いありません。戦争を経験した国家である以上、平和を推し進めるのは当然のことですが、歴史観・政治観には歪曲と捏造が付き物であり、当事者の記憶が薄れるにしたがって、何やら怪しげな言説が入り込みやすくなるのではないかということも実感しています。76年という、明治維新から終戦までの長さにほぼ等しい時間が過ぎた今、我々は戦前や戦時中のことをどれだけ理解できているでしょうか?

 戦争が終わった後の我が国は、ものすごい勢いで変化を遂げました。再び戦争を繰り返したくないという思いから、それまでの思想も組織も否定して、迅速に国家を作り変えてきたのです。焼け野原に建物を建てるのも、戦前・戦中にはなかったものを持ち込むのも、戦争によってもたらされたものを否定するということであり、その思いがなければ、決して成し遂げられなかったと思います。そして、戦前的・戦中的なるものは、徹底的に糾弾され、排除されました。終戦が出発点であったと言われるゆえんです。

 一方で、終戦は完全なリスタートではなく、何でもかんでも終戦から出発したわけではないことも述べておかなければなりません。そもそも、当時の人々は戦前から生き続けていたのであり、生きている以上、その人の思想が完全に生まれ変わるわけではないということです。何でも戦後が正しいといえるわけではないのですが、実際にはそのように働きかけられ、それまでの歴史観を歪めてまで戦後を礼賛してきたのでした。戦後の社会に適応できず、辛酸を舐めるようにひっそりと生きた人もいたのでしょうが、彼らにとっての歴史は語られることなく、時間とともに淘汰されていったのでした。

 終戦からこの国が出発したという表現は、好んで使われるべき場面もあるでしょうが、上述の理由から、いかなる場面でもふさわしいといえるものではありません。故意に歴史を歪めてまで作り上げられた戦後社会は正しいとは思えず、相変わらず突っ走ったままの「戦後」観はいつの日か問い直されなければならないと考えています。特に、COV-19に悩まされているこの社会を否定したいがために、「大本営発表」「本土決戦」などと言う戦時中の用語を持ち出し、今の社会を安易に戦時中の社会になぞらえるような物言いには賛同できません。この社会を記述するのに、一面をねぶっただけで済ませているようにしか見えないからです。このような考え方を持つ私のような人間が現れたのも、戦争から距離が生じたからなのかもしれません。

 では、戦争の記憶は、いつまで残るのでしょうか?すでに76年が過ぎていますが、人間の寿命が限られているために、戦争を知る世代はいずれ完全にいなくなります。しかし、それで全く消え去ってしまうのではなく、彼らが伝えようとしてきたものは、(歪曲や捏造も含めて)後世に残るはずです。

 同時に、戦争の惨禍も消えません。これだけ戦争を否定し続けてきたにも関わらず、我が国は「枢軸国」の一員として蔑視され続けることでしょう。自分が生まれていなかった頃の先人の責任を負わされるというのは、感覚的に理解しづらいことかもしれませんが、世界を見れば、奴隷貿易ユダヤ人の迫害など、何百年あるいは千年以上前の歴史的事実が持ち出されるような場面は少なからずあります。

 抑圧の象徴として話題にされる中で最も大きなテーマは、何百年にもわたって行われ続けた植民地政策で、第二次世界大戦の戦況にも影響しました。植民地の住民は、今もかつての宗主国に対して良い感情を抱いておらず、禍根も弊害も至る所に残り続けています。日本はそこに土足で踏み込んだわけですから、76年ごときで負うべき責任が消えることはないでしょう。我が国の先人は、そのような負い目を持ちながら、別の場面では世界に貢献し続け、今の国際的地位を築いてきたのでした。

 妬みも恨みも、誇りも驕りも、全て前の時代から引き継がれたものです。なぜ我が国の当時の指導者は、戦争への道を歩んだのでしょうか?考えても明らかにし尽くせることではありませんが、少なくとも「大正デモクラシーのもとで憲政の常道が確立されていたが、クーデターの連続によって軍部が台頭すると、いきなり侵略政策を取り始めた」などという浅い理解のままでは絶対にいけないと思います。

 日本人がアメリカやイギリスに恨みを持ち始めた原因としては、アメリカに対しては黒船来航の際の不平等条約締結や排日移民法による日本人への抑圧、イギリスに対しては薩英戦争や日英同盟破棄の際の対日圧力などが指摘されています。幕末に鹿児島で起きた薩英戦争は、イギリスの戦艦から大砲が発射され、民家に着弾するという事件でした。日本が戦争に走ったころ、このことを記憶する世代はかろうじてこの世に残っていたはずで、またそれを経験していない世代にも屈辱として記憶が受け継がれていたはずです。先の大戦においてよく引き合いに出された「神風」は、鎌倉時代に元(中国)が侵略してきた際に吹いた風のことです。鎌倉時代を知っている人が昭和に生きていたはずなどないのですが、遠い昔の記憶が絶えず受け継がれ、故事として引き合いに出され続けて喧伝された文句なのです。

 当時の日本人を擁護するために連合国側を貶めようとしているわけではないのですが、これらによって日本人が恨みを持っており、戦争に向かう要因として機能したことは間違いないと思います。戦争を防ぐには何よりも国際協調が必要であり、また「戦争の参加国は全てが悪」とされる根拠が確かなものとして浮かびあがるようです。

 今の世の中を見るに、「平和」を標榜し、戦争につながると勝手に認定したものを遠ざけて満足するような勢力が、過去の歴史的事実と真剣に向き合おうとしているとは思えません。どこが不十分なのかと問われれば、私も苦しむのですが、一面的かつ浅薄な歴史観・政治観から脱却することが必要であり、それを表に出して平気でいられるようでは情けない限りです。そして私は、自分なりに研鑽を続けています。自分にとって都合の良い知識や解釈ばかりを身にまとい、知ったような顔をできるのが今の世の中ですが、そういう人間が巷にあふれている現状は、とても苦しく思います。ゆえに、少しでも己を磨き上げたいのです。

 戦前も戦後も、常に現実は辛く非情なものであり続けています。目にするのも嫌になるような事実に目を背けず、先入観を排して歴史的事実と向かい合うことが、万人に受け入れられ後世に通用する歴史観を持つための一歩ではないかと考えます。年号暗記を嫌がり、過ぎたことを自分に関係ないものとして切り離して考えがちな現代人にとって、終戦からの経過年数が、明治維新から終戦までとほぼ同じ長さに達しているという事実は、現代まで続く「流れ」としての歴史に向き合うための感覚を養う材料のひとつになりうるのではないでしょうか?

【第88回】無題

 おひさしぶりです、まえだです!
reray blogも第88回まで来たんですね、、、
ゾロ目ということで少し嬉しかったです!


 タイトルが【無題】ということなんですが、明確な方向性が定まらず、終わりかたも一貫性がなかったためこのような形になりました。いやまとめろよって感じですよねははは(^^;
 まぁ、まえだの書きなぐりのメモだと思って見ていただきたいです

今回は、私が大学で学んでる「生涯学習」についてお話ししようと思います!珍しく真面目です!

 
 みなさんは、生涯学習という言葉に馴染みがありますか??言葉の響きだけだと、少し恐ろしささえ感じます、、、私は勉強嫌いなので💦

 といっても、受験勉強のような「学習」ではなくて、自分が学びたい分野や、自分の成長のための「学習」を指すことが多いです!

 公民館や図書館、博物館などで行われている勉強会やイベントが、生涯学習の場として取り上げられています。そしてその概念や、場の作り方、必要性を学んでいるのですが、、、

 定期的に、
 「あれ、生涯学習ってほんとにいる、?」
という考え方になることがあります。

 生涯学習を学ぶ上で、生涯学習の良いところばかりを見るようになって、では実際のところどうなの?ってなったときに、浸透していない現状にぶち当たります。

 たしかに、私は生涯学習を学んでいても、頻繁に公民館などの公共施設に足を運ぶわけではないですし、惹かれないものは惹かれません。

 ですが、やはり必要としている方々や、期待される機能があるわけで、、、うーん、難しい

 このブログの締めかたも難しい(^^)  
結局何が言いたいのかというと、自分が正しいと思ったものを、一度否定してしまうと、新しい考え方が生まれる場合もあるけど、今まで見ないふりをしてきた負の面が見える場合もあるってことです。

 みなさんもこんな経験ありますかね、?
とりあえず、10月の中旬まで夏休みが続くので、もう少し考えて見ようと思います🐤

 次は平田さんですー!

【第87回】『音楽文』が終わる

どうも。くぼはるです。

社会人へのカウントダウンが始まった今、中学生や高校生の頃の自分を思い返す時間が増えた。中学生の頃の僕は、イヤホンで蓋をして世界を拒絶していたように思う。死にたいわけじゃないけど、生きるのが嫌で仕方なったのでとにかく体を音楽で満たしていた。まさに中二病まっさかり。アーティストの歌詞や息遣い、この曲を歌うとき、考えたとき、この人何を思っていたのだろうか。そんなことで頭がいっぱい。

最近、当時のような気持ちで音楽を聴くことはめっきり減って、耳馴染みのいい音を「消費」するような聴き方をしていた事に気が付いた。15歳と22歳でここまで音楽の捉え方が変わるなんて。なんだか寂しい人間になった。

 

それでは本題。

 

『音楽文』という文章投稿サービスをご存じだろうか。

大規模フェスや雑誌で有名なロッキング・オン・グループの運営で、2017年からサービスがスタートした、音楽に関する文章を投稿できるサイトである。このサイトが2022年3月をもってサービスを終了するんだそうだ。

正直な話、流行らなかった。たぶん。だから終わるのだ。

しかし、このサイトには、サイト閉鎖と共に埋もれるにはあまりにももったいない秀逸な作品で溢れている。

 

いくつか好きな投稿を紹介する。

 

一つ目は、2009年に亡くなったフジファブリックのVo.志村正彦の遺した楽曲たちを、終助詞という切り口で解説した傑作である。ここで内容には触れないが、「若者のすべて」を存じている方ならどうか読んでほしい。

ongakubun.com

この投稿者は34歳らしい。34歳になっても、ここまで音楽の考察に思い馳せられる生き方に憧れを抱いてしまう。

 

二つ目は、クリープハイプと自身の7年間を重ねた作品。文章からありありと情景が浮かぶ文章力と表現力で投稿者の苦しみと、救いが感じ取れる。この投稿も非常にお勧めする。

ongakubun.com

二つ目の投稿者は本文で、

クリープハイプに支えられて生きてきました。」こう思っている人は多いだろうし、間違いなく私もこう言える。言葉にすると、えらく簡単に聞こえる。〝支えられる〟ということは、その前に〝倒れそうになる〟ということだ。

と語っている。

世の中の音楽に支えられと語る人々は、僕を含めてきっと総じて強い人ではない。相対的に弱さがある人々が救われる瞬間、救われた瞬間を共有できる媒体は、まだ必要なんじゃないだろうか。

音楽文に投稿される文章は、音楽批評と呼ぶにはあまりにも私的で、詩的すぎる。そんな彼らの綴った文章がどうか世に残されますように。

 

それでは。