【第83回】10000㎢の価値

 こんにちは。平田将達です。今年の暑さには苦しめられていたのですが、台風9号が通り過ぎてからというもの、しばらく暑さは落ち着いています。私は暑さに弱いので、これほどうれしいことはありません。コロナ禍で体が暑さに慣れていないということもあり、暑さに対して万全ではないのですが、何とかこの先も耐えていきたいと思います。

 さて、今回のテーマは、「地域の連続性」です。変なタイトルですが、「10000㎢」とは何をさすものか、読んでいる途中でお気づきになると思います。生きるうえでの見識を養うことを目的に、この記事を書いてみました。

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 全国47都道府県名と県庁所在地名を完答できる日本人は、そう多くないものと思われます。どれも日本の一部を構成する自治体として欠かせないものであるはずなのに、その全てにはなかなか目がいきません。ある程度以上の教養のある人間が、知識として知っているという場合に限られるでしょう。

 私は完答できる自信があります。しかし、さまざまな地名を知っているにせよ、やはり雑学としての知識にすぎません。

 完答を阻む関門として、「鳥取県島根県どっちがどっちかわからん」というトラップがあるようです。日本の中心たる首都圏から見ても、あるいは関西圏からも中京圏から見ても、これら山陰両県の存在は極めて薄いと言える状況であり、おろそかになってしまうものと考えています。

 私は、今でこそ島根県に住んでいますが、高校までは岡山県にいました。家族に連れられて鳥取県に行くことがあったため、「岡山のにあるほうが鳥取県」という覚え方ができ、鳥取と島根で間違うことはありませんでした。…とはいえ、実際に住み始めるまで、島根県に行ってみた回数はほんの何回かに過ぎず、島根について思いをめぐらせる回数は特に少なかったと評価します。

 

 では、鳥取県島根県の違いはどこにあるのでしょうか?次の画像と説明をご覧になればおわかりになろうかと思います。

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画像出典:https://technocco.jp/n_map/chugoku/chugoku2_cm.png (テクノコ白地図)

 

 鳥取県島根県も、どちらも東西に長い形をしており、シルエットのうえではあまり違いがわかりません。しかし、島根県のほうがより長く、鳥取県のほうが短いのが、この画像を一見してわかる大きな違いです。(ほかに、島根県には隠岐諸島があるのに対し、鳥取県の島は全て無人島という違いがありますが、この画像からは読み取れません)

 実は、鳥取県も東西に長いのですが、島根県の長さといえばかなりのものです。「長いほうが島根」ということを知っておけば、間違えることはなさそうなのですが、番号を振って名前を暗記させたり、47都道府県を1つずつ切り分けてシルエットで答えさせたりするならば、都道府県暗記は途端に苦行と化します。(あくまで隣の鳥取県と比べて島根県は東西に長いと言いたいのであり、単に「東西に長い形をしている」というだけでは、高知県と区別がつかないではないですか)

 私が今住んでいる松江の街は、宍道湖の東側に位置しており、北の日本海側にはギザギザの島根半島が、真西の日本海沿岸には突き出た日御碕が、東には中海に江島や大根島や美保関があります。ここまで知っているならば、都道府県の中から島根県のシルエットのみを取り出したとしても、即答することができます。(島根県とまぎらわしい高知県は、やはり突き出た室戸岬足摺岬が特徴として知られています。また、中国山地を南側、日本海を北側に持つ島根県に対し、高知県は太平洋を南側、四国山地を北側に持っているという違いがあります。同じような輪郭に見えますが、実は全く異なる地形なのです)

 これほどの事柄を知っているために、私は島根県を他の都道府県と弁別できるのですが、これは知識として知っているというよりは、自らの足で島根県を巡って体得したものです。事実、都道府県名のみならず、島根県内の市町村をも覚えましたが、これは「飯南町といえば松江から南西の中国山地沿い」「吉賀町といえば益田から南に行った中国山地沿いで、両脇は山口県広島県」のように、実際に巡りつつ覚えたからです。

 さらに、松江に引っ越してきた時、道路の案内標識を見て、都市間の距離の長さを知りました。

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 この案内標識は、松江市の国道9号にあるものです。それまで、松江から鳥取の距離がどれくらいか見当がつきませんでしたし、考えもしませんでしたが、「120kmあまり」という距離を突き付けられて、その遠さを実感しました。普段出かける範囲が自宅から数kmに過ぎないので、それと比較すればものすごい距離です。

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 この案内標識は、松江から約30km離れた鳥取県米子市にあるものです。ここまで行くと、案内標識に「京都」が入ってきます。いまだに日本海沿岸を通って京都に行ったことがないので、300kmという距離を実感できてはいないのですが、300kmを超える案内標識はおそらく全国的にも珍しく、私が目にしたのは「米子→京都」のみです。

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 続いて、逆方向のものとして、出雲市の国道9号にある案内標識を撮影してみました。出雲市から「下関」が登場します。出雲から先、さらに300km近い長さを持っているということで、山陰沿岸のスケールの大きさに気付かされました。これは、おそらく東京などの大都市圏に住んでおられる方には実感できないスケールです。

 この記事を書くために、山陰がいかに東西方向に長いかを調べようと、次のような画像を作ってみました。

 次の画像は、山陰の最大都市である松江を基準として、東と西に向かったときに、それぞれの都市が何km離れているかを視覚化したものです。距離は国道9号経由で、Google Mapで測定しました。黒枠が各市町村の領域で、赤線は市町村役場までの距離です。なお、国道9号が日本海沿岸を通るのは、東は鳥取市から、西は島根県益田市までです。

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 今回調べた範囲では、米子と出雲がおおむね等距離で、浜田と鳥取がほぼ等距離ということが判明したのですが、これはなかなか感覚的に理解できることではありません。しかし、松江からの物理的な距離はほぼ同じなのです。また、島根県西部の益田や津和野は、東に向かった際に鳥取県を越えて兵庫県に到達できる距離に相当するほど遠いということになります。

 山陰沿岸の長さについて語りましたが、沿岸ルートで私が行ったことがあるのは、東は兵庫県新温泉町まで、西は山口県萩市までです。この範囲内ですと、実際に行った経験を基に距離を実感できるのですが、それより向こうは私にとって未踏の地であるために、いかに遠いのかをまだ理解できていません。いずれ行ってみたいと思っておりますが、COV-19のために叶っていないのです。

 ここまで説明したように、実際に足を運び、何らかの愛着を持ってさえいるならば、その特徴は間違いなく記憶に残るはずなのですが、鳥取県島根県は多くの日本人にとって「どうでもいい」場所であるために、何ら愛着を持たれることなく、「どっちがどっちかわから」ず、それでいいということで、都道府県名完答の鬼門となってしまうのではないかと考えています。

 その弊害は、単なる無理解には留まりません。鳥取・島根の両県は、「人口が少ない」ということだけが知られているために、その鄙びた様子をことさらあげつらわれてネタにされ、両県出身者は「田舎者」として奇異の目で見られ、挙句の果てには今般のCOV-19ワクチンについて、「鳥取・島根は死者が1ケタしか出ていないから、その分を東京に回せ」とまで言われる始末です。(ワクチンは公平に分配されなければならないという考えに基づいて述べていますので、趣旨を誤解なさらないでください。少なくとも私は、このような発言には、著しい地方蔑視のニュアンスを感じるのです)

 …ここまで書いたことを認めていただけるとしても、日本の全てを知るために47都道府県を隅々まで訪れさせることには限界があります。何もみんな鳥取や島根に来なければならないと言いたいわけではありません。ただ、「鳥取や島根には何もない」と言われることには、島根県在住者として抗議しなければならないと考えます。

 そもそも、「鳥取や島根には何もない」と言われるならば、「ならば東京や大阪には何があるのか」と問わねばなりません。この問いには、ムッとして言い返す意味もありますが、「○○には何もない」と平気で口にする人間に限って、地域の個性や多様性に関して無頓着であるということも暗喩しています。島根にはスカイツリーはありませんが、それが魅力のなさにつながるとは思っておりません。鳥取や島根にないものばかりを(現地を知らないため必ずしも正確でなく)数え上げて悦に入る人の心の狭さは、実に醜いものです。また見識も狭いといえるはずです。

 私がこの記事を読んでくださっている皆様に身につけて頂きたい能力とは、どんな場所にも人の営みがあり、その土地の個性があることを察知する感覚です。この感覚を体得できるならば、どこに行ってもその土地なりの魅力を感じることができ、「何もない」などとは口にできなくなるでしょう。

 この世の中には、本当にさまざまな場所があります。例えば、「島根」と聞いて、松江城出雲大社の景色しか思い浮かばないようでは、知識も経験も不足しています。それら出雲地方の西には石見地方があり、日本海には隠岐諸島の島々があり、この3つを含めて島根県という行政区域があるのです。それが、出雲地方の何点かを指して「島根」を語られるのであれば、不足と言わざるをえないでしょう。

 あらゆる土地にそれぞれの魅力があるのですが、それらは県境や市境には必ずしも縛られません。文化は、人が行き交う中ではぐくまれるものですので、結びつきの強い土地同士の風土が似通うのに対し、そうでない地域同士は離れることになるはずです。

 これは、石見地方を例に出すと比較的わかりやすいと思います。石見地方は、「石東(大田市・美郷町あたり)」「石央(浜田市江津市・邑南町あたり)」「石西(益田市・津和野町・吉賀町あたり)」に細分化されるのですが、地理的に出雲に近いためか、石東の方言は少し出雲よりのものになっています。また、広島県の三次盆地を通って江津に向けて流れる江の川の沿岸は、かつて船によって物を運んでいたために三次あたりと交流があったといいますし、中国山地沿いでは、やはり広島県の芸北あたりとの交わりがあったはずです。他方、江の川沿いの石見都賀(美郷町)と赤名(飯南町)は、わずか10kmほどしか離れておらず、地図で見るととても近いのに、それぞれ石見と出雲に引き裂かれています。両者は確かに近いのですが、標高の違いがあり、昔の人には異なる領域として見えていたのではないかと思います。(石見都賀は約80mなのに対し、赤名は約450mもあります。)

 地方の魅力は、何といってもこの多様性にあると思います。その色の違いは、ある地点でハッキリ断ち切られることもあるにせよ、基本的にはグラデーションのように推移するもので、移動しているうちにゆっくりと移り変わっていきます。

 私が島根県に引っ越してまだ間もない頃の2018年6月に、私は山陰本線の快速アクアライナーに乗って、松江から益田まで移動しました。それまで日本海沿岸に来たことはあったものの、この距離を一度に移動するのは、これが初めてでした。出雲から浜田までの間、大田・仁万・温泉津・江津・都野津・波子・浜田と止まりましたが、その間つねに景色を見ていました。人里を見るたびに、知らない土地に来たような気になり、目を奪われていたことを思い出します。流れるように移り変わっていく景色こそ、私の目を最も輝かせるものでしたが、終点の益田に着いた時にまず感じたのは、松江から快速で3時間もかかるほど走ったのに、着いた土地が松江と同じ島根県に分類されるということでした。全然違う土地に来たのであり、そのことを存分に感じたはずなのに、松江と益田という2地点は島根県という点で共通しているのです。この時、私は島根県の大きさを実感しました。

 さらにいえば、それまで住んでいた岡山県と比べると、「中国地方」というレベルでは共通しているのです。中国山地を越える道のりは長く、見慣れた瀬戸内海が日本海に変わったという大きな違いを考えれば、全然別の土地に思えるのに、その双方が中国地方という巨大な領域の一部分を成しているということを実感しました。これらは、出発地と目的地の2地点を見るだけでは決して気付けないことです。

 見方を変えれば、ほんの少し離れるだけで、何かしらの違いを見出すことができるはずです。細かな違いにこだわるならば、たった1m動くだけで、見えている景色が全く同じではなくなるといえそうです。しかし、10000km離れたとしても、変わらないものはあるはずです。最も大きなスケールで語るならば、「全世界(地球)」というレベルで普遍性を見出すことができるでしょう。そのことを感じたいならば、飛行機に乗って海外に行ってみるのが良いと思います。同様に、鳥取や島根を知るには、実際に行ってみるのが最善です。

 島根県の隣には、鳥取県があり、広島県があり、山口県があります。「島根県」と聞くと、何やら陸の孤島であるかのように語られることがあるのですが(少なくとも東と西は開けっぴろげというツッコミは措くとして)、間違いなくこれらの県は連続しています。例えば、我々が思い浮かべる「広島」と「島根」は隔絶されたものかもしれませんが、道路でつながっているのです。恐らくつながりが最も希薄なのは「福島県」と「群馬県」(県境をまたぐ車道・鉄道が1本もない)ですが、どんなに交流が薄いとしても、連続していることに変わりはありません。尾瀬沼でつながっている福島と群馬の連続性を語ることができるならば、だいたいの土地の連続性を考えることができるでしょう。

 遠く離れたところから、「鳥取や島根には何もない」と言い切る人の頭の中には、今自分が踏みしめている大地が鳥取や島根とつながっているという認識が欠けているのではないでしょうか?もちろん、その先にどんな個性があるのかということは、知らないし考えもしないのです。

 つまり、何事を考えるにしても、自分の身の回りのごく狭い世界のことにしか理解が及ばず、他県で起きる出来事は、遠い世界のことのように感じてしまうのです。これでは、関わりをもつことができません。全く予期しなかった領域からいきなり関係を持つような運命的な出会いがあれば良いのですが、今の日本には「地方蔑視」と呼ぶべき風潮が非常に強いために、そのような出会いはなかなかないのではないかと思います。私も、島根県に住むことになったのは大学受験がきっかけでしたが、これは運命的な出会いではなかったかと思っています。

 国土地理院の「全国都道府県市区町村別面積調」によると、鳥取県の面積は約3507㎢、島根県の面積は約6708㎢とのことです。

https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20210401.pdf

 つまり、両県合わせて10000㎢以上の面積を有することになります。これは、日本の国土の約2.7%の面積です。こう書くと小さいように見えてしまうのですが、日本全体の2.7%ですから、もちろんとんでもない大きさです。鳥取や島根のような地方の魅力に気づかない人は、これだけの面積を持つ土地のことを、頭の中から外してしまうということなのでしょう。

 …いや、47もの都道府県があるというのに、鳥取と島根に限って意識が抜け落ちるということは考えられません。実際には、更に多く、もっと広い面積の土地について理解が及んでいないと思われるのですが、それを測定する術はありません。今住んでいる町の外側に理解が向かないならば、その町の面積分にしか目が向いていないということであり、直径30kmの区域の中で全てを完結させるというのであれば、計算上は約706.86㎢が理解の及ぶ範囲ということになります。

 例えば東京に住んでいる人は、普段は西日本のことなど気にもとめないものであり、関東広域に目を向けることがせいぜいなのでしょうが、その枠の中のことだけ考えて過ごしているようでは、その外側に意識が向かないまま日々を過ごすことになります。日本とは、東京とその周辺のことなのかと思ってしまうほどです。これは私も同じで、島根県のことばかり考えて過ごしており、かつて住んでいたはずの岡山県でさえ、普段は意識の外側に置いています。ましてや東京で起こっていることなど、異世界の出来事のように感じてしまうほどです。まだまだ東京とのつながりを認識できてはいないと自己評価します。

 我々が普段暮らしている地域の外側に目が向かないということは、本来広くて多様なはずの国土に目が向いていないということであり、いたずらに目を曇らせ、偏狭な考えに陥らせるということでもあります。理解の外にある土地の出来事については、皮相な知識や先入観から何とでも言えてしまいますし、目が向くこともありません。

 いかなる瞬間も全国・世界のすべてに目を向けて暮らしていくということは、途方もない労力を要し、そもそも不可能なことですが、少なくとも鳥取や島根を理解の外に追いやり、存在を埋もれさせるということは、そのポテンシャルからしてたいへんもったいないと考えています。1人でも多くの人が、この10000㎢の価値を自分なりに感じ、目を向けることが必要であるという考えから、私自身もその価値を伝える側でありたいと思っています。