【第78回】3年前のあの日

#rerayblog 田村の番が回ってきました。

島根県に振り続けた雨も収まり、最近は晴れ間も見えております。

そろそろ梅雨も明けるかな?本格的に暑くなってくるのを嫌だなあと思い始めている今日この頃。

 

 

突然自分語りしますが、

私は岡山県倉敷市真備町出身です。

岡山県倉敷市真備町は3年前の2019年7月7日 後に西日本豪雨と呼ばれる未曽有の大災害に襲われました。

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この写真に見覚えがある人もいるのではないでしょうか?

これは7/7の真備町の航空写真である。

写真右下から左上へと中央に走っている黒い一本は私鉄「井原鉄道」の線路である。
この私鉄は町のかなり高い場所を走っている珍しい鉄道なのだ。

点々と見えている黒、赤、青の色とりどりの四角いものは家の屋根である。
屋根しか見えなくらいまで水が上がってきている。だいたい3m〜4mくらい。

茶色く濁った水が朝8時頃から水位を上げ、夕方まで上がり続けた。
逃げ遅れた人々は徐々に上がりゆく水におびえながら救助を待ったことだろう。

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朝10時の段階で床上くらいまで水が上がった様子を、隣家の幼馴染が送ってくれた。

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前日の内から早めに避難していた家族が送ってくれた写真である。

昼過ぎ頃だったと記憶しているが、土手の堤防からの写真である。徐々に水が上がってきている。

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これはまだ昼前の様子であるが、水が上がってきて船で避難している人の姿など見られる。

 

 

私の実家も水に浸かった。水位は3m50cmまで上がった。1階は完全浸水。2階も50cmほど水が上がった。

水が引いた後の写真をいくつかご紹介しよう。

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どこからか「通行止め」の時などに使うポールが流されてきた。

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家の裏の様子です。2本あったガスボンベのうち1本はどこかへ流れて行ってしまいました。水の勢いが強かったことが伺えます。

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洗面所です。バスタオルなどを入れているタンスが持ち上がってしまっていたり、扉が外れていたりしています。

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一階の和室です。畳が持ち上がっていたり、服は茶色に染まっています。

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これは台所です。倒れている木の箱は食器台。右側の白い箱は調理台に乗った冷蔵庫。

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グロテスクな映像ですね。トイレです。

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こちら階段です。まだ泥が残っています。

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片付け終わった段階でこれだけ家のものはダメになりました。

 

災害当時は私は島根大学の1年生で、1コマ講義が終わって帰ってきてからテレビで見て真備の状況を知りました。

隣家の幼馴染が逃げ遅れたみたいで、定期的に送ってくれる現在の水位を聞きながら、テレビで見る真備の変わり果てた姿を見るのが恐ろしかったことを今でも覚えています。幼馴染みのことが気が気でなくて、夕飯も喉を通りませんでした。

夜になって幼馴染みが船に救助されたことを知って安堵すると共に、我がふるさとがこんなことになってしまったことが受けいられずにいました。

 

授業もあるし電車も止まっているとかなんとか言い訳して帰れなかった。
今思えば授業なんか放って帰って手伝いたかったですね。
それから地元のために何かできないかって思い始めたのは後期が始まって10月を過ぎてからのことでした。その話は省きます。
 
ちなみに家族も私の知人も皆無事だったのでそれは安心です。
 
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ここからはうってかわって松江の話。
先日松江市は記録的な豪雨に襲われていた。
八雲や玉造、宍道の方は大雨が降りました。
駅周辺でも朝酌の方で川が反乱していたとか。
全国ニュースになったくらいで、他県の片から「大丈夫か?」と連絡が来たくらい。
 
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今は真備町も復興も進みつつあり、我が家も昨年再建しました。
豪雨災害が怖いのは建物がそのまま残ること。街の姿はそのままに、街の機能が停止する。
形は残っているのに誰もいない家、スーパー、施設などなど。
定期的に帰ってきて夜に街を走ると、そこはまるでゴーストタウン。被災した人が帰ってきていないから明かりがつかないけど建物はそこにある。
今はだいぶ明かりも増えてきて、大きな店や施設も再建が進んでいます。
それでも無くならないものはあって、それは当事者たちの心の傷。
形は残っているのに家を失った、家具や思い出はすべて水に浸かった。
同じ家なのに、同じ見た目なのに、全然違う家、全然違う街なのだ。
豪雨災害から3年。地元は当たり前ではないことを学んだ。
街は消えるということを学んだ。
 
これまで西日本豪雨のことを詳しく書いたことはなかった。
なんでだろう?なんとなく触れたら駄目なような気がしていたのだろうか?私が当事者ではないから?わからない。
この3年という節目に、今度は地元ではなく今の自分の居住地(松江)でこんな大雨があった後だから、考えさせられることが多かった。Facebook でも文章を投稿した。
 
豪雨災害以降、私は出身を名乗るときは「岡山県倉敷市真備町出身だ」と言っている。災害を風化させないために、少しでも多くの人に豪雨災害のことを知ってもらうために、身近に感じてもらうために。
同時に、大好きな地元のために。豪雨災害の街とだけ覚えられたくはない。たくさんの思い出をくれた大好きな地元だから、とても魅力ある街だから、私を構成する重要な一部だから。
ありがとう。