【第59回】キャッチボールから始める学問

どうも。くぼはるです。

 

今回は遊びに関してのお話。最近小学生の頃のクラスメイトとキャッチボールをする時間が出来た。ひょんなところからインスタグラムで会話が盛り上がり、久々にキャッチボールをすることとなったのだが、これがまた面白く、奥深い。100km投げることが出来たらかっこいいね何てことを話しながらあっという間に時間が過ぎ、気がつけば4時間もグローブと一つのボールで遊び続けていた。この感覚は懐かしく新鮮で、まだまだ自分は捨てたもんじゃないなと感じることが出来たのだが、、、、

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【疑問】「遊び」って何だ?気になり始めてしまった。

 

遊ぼうと言われて、皆さんはいったい何をするのだろう。

 

成人してからの僕は大抵の場合、遊ぶ=お酒と解釈していた節がある。歌いながら、食べながら、語りながら、何かの行為のそばにいつもお酒が絡んでる。もちろんお酒は大人の特権だし、おいしく飲めればお酒は楽しくおいしいものだ。しかし、しっかりと「遊ぶ」という体験から遠ざかっている人が多いのではないだろうかと。そう感じた。

「遊び」とは一体何なのか。

小学生の頃に遊ぼうと言われたら何をしていたかを思い返してみる。もっぱら外遊びが主で、サッカー的な何かや野球的な何か、その他ルールに縛られないボール遊び、ボールが一つあれば僕たちは何時間だって遊ぶことが出来た。

中学生の頃はどうだろう。実は中学生の頃の記憶がおぼつかないので何をしていたか定かでないのだが、この頃から外を走り回るような遊びは減った気がする。しかし、なかったわけではない。たぶん。

高校生にもなると、遊ぶ過程でそこそこの出費が伴うようになる。会話が遊びに含まれ、友人や恋人と食事をすることが手軽な遊びのひとつになる。他にはボウリングやカラオケといった遊戯施設の利用も増えていく。

(ここまであえて触れなかったが、どの年代にもゲームという要素がさらに加わる。)

 

【考察】こう振り返ると思考の発達に伴って、コミュニケーションが一種の娯楽、遊びとして確立していくのがわかる。そうした反面、思考を軸にしないような遊びをする時間は失われていくようだ。

 

調べてみると「遊び」に関しては長い事研究がされているようで、歴史研究者のホイジンガは人をホモ・ルーデンス(遊ぶ人)と説いたそう。「遊び」こそが人間の本質なのだと。また、ホイジンガは著書の中で、「遊びは遊び以外の何者かのために行われる」と述べている。

友人とのキャッチボールも、運動不足解消という理由を孕んでいなくはない。しかし私たちが何も考えずに遊んでいたはずの幼少期の「遊び」も、無意識ながら理由が存在するのだろうか、非常に興味深いと感じた次第。

 

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こうやって身近な疑問から深めていけるのが学問じゃないんだろうか。何かに触れた時に感じる、なんで?どうして?を図鑑で調べられる純粋さを持っていられる時代は過ぎたのかもしれない。でも、その頃にはなかった、もっと深く学べる思考が私達にはある。軽く調べるだけでも、疑問・考察・仮説がどんどん生まれてくる。その答えを見つける過程は楽しいに違いない。

 

今回は遊びに関しての疑問やそれを調べる動機を綴った。これからしっかりと文献を読んで自分なりの考察がまとめられたらと思うけど、卒論は別の事を書きます。

 

最後に

早くコロナ収束しないかな!

 

それでは。