【第30回】オンライン親戚という概念

どうも。

ご無沙汰です。くぼはるです。

自堕落な生活を送って太った~!という友人たちを横目に、なんかこの期間で痩せまして、今年の初めより7kgくらい体重が落ちた。ラーメン一杯でも苦しくなるくらいの食の細りようなので、ヤバさを感じてるし、家族には「細すぎ」「貧相」「弱そう」「頼りない」と散々な言われようで、筋トレしようかと考え始めてる。なんてったって筋肉は裏切らないからね(?)

 

それでは本題。

 

コロナウイルスが猛威をふるい、いわゆる「おうち時間」が増加したことで普段の生活サイクルのオンライン化が一気に進んだ。オンライン授業や、オンライン会議にオンライン飲み会 etc.... 

 

この流れにのって、今ここで告白したい。

 

私には「オンライン親戚」なるものが存在する。

 

何を言っているのかと感じた読み手のあなたの感性は、たぶん間違っていない。僕が保証しよう。今回の記事は、ネットで繋がった人達との関わり方とスタンスの話。こういう人間もいるのかと、気楽に読み進めてくれると幸いだ。

 

オンライン親戚は造語だ。これといった定義はない。

約5年前、Twitterで仲良くなった同い年のMちゃん。僕はその子をオンライン親戚だと思っているし、彼女も僕の事をそんな感じの存在だと思っているらしい。

 

2015年、高校進学を機にスマホを手にした僕はTwitterを始めた。そこからの2年間くらいは、趣味で聞いていた邦楽ロックが好きな方々、そういう界隈の人々との交流を楽しんでいた。今、振り返ると意味不明なのだが

#日曜日だし邦rock好きな人と繋がりたい

というハッシュタグを駆使して、自分の趣味の世界を広げていた。なぜ日曜日だから繋がる理由になるのかは不明だ。(ちなみにこの文化は今現在も存在するようである)

僕はTwitterを通して知らない音楽を知り、その音楽を顔を知らない人々と語らうのが日課になっていた。思春期の黒歴史に近い思い出だが、現実の学校生活とは別の自分の居場所であり、そこでの人々の交流は心地の良い時間だった。

Mちゃんはその頃のフォロワーの一人だ。特段仲良くなった理由はわからない。なんとなく、波長が合ったんだと思う。アカウントを移行する際には必ずMちゃんに伝え、匿名性の高いTwitterの枠を飛び出し、LINEやインスタを交換する仲になった。

Twitter廃人同士だ。近況はタイムラインに流れてくる互いのツイートを見ればわかる。故に、密な連絡を取り合うわけではない。互いの事は気にしつつ、頻繁な干渉はしない。しかし、数ヶ月に一度は電話やチャットで近況の詳細を伝え合う。この距離感が心地よさを生むのかもしれない。

僕にとっては、お盆や、正月に集まり近況報告をし合う、親戚に近いものを感じている。

 

ネットの人に会ってはいけません。インターネットコミュニティと触れ合う際に、一種の不文律のように存在するこの言葉。確かにこの言葉は、ネット社会が進んだ今でも心にとどめておかなければならないと思う。実際、高校生の頃に会った異性の方にわりかし強引に腕を組まれ、不快な気分で帰路についた思い出もある。しかし、普段生活するコミュニティとは切り離された場所に存在する心を許せる人達。その人達は遠い存在だからこそ、自分の味方になってくれるはずだ。

コロナによって、オンライン環境の整備が飛躍的に進んだ。どうか怖がらずにネットの人間と親しくなってみてほしい。きっと一人くらい、あなたの人生に彩りを与えてくれる存在が見つかるはずだ。普通なら出会うはずのない場所に住み生きる人と、通じ合える。そんな可能性をSNSは秘めている。

 

皆さんくれぐれも、体調には気をつけて。

それでは。